主の受難/枝の主日(A年)の説教=マタイ27・11~54
2011年4月17日
世界には互いに似た人が3人いるといわれています。あくまでも「似ている」のであって、同じではありません。したがって、地球上に完璧に同一人はいないということです。当たり前のことです。人によって考え方、感じ方、表現の仕方はまちまちで、個性があります。これまた、「似たもの」はあってもまったく同じものはありません。
一方で、苦楽を共にするという表現があります。「苦楽を共にしてきた仲です」というとき、これまた、同じレベルで、同じ範囲で「共にする」ことは難しいでしょう。せめて、「分かち合う」と言ったほうが妥当なのでしょうか。
いよいよ聖週間に入りました。イエスさまの苦しみ、受難が、これでもか、これでもかと感じるほどに出てまいります。マザーテレサの言葉に、「貧困をつくるのは神ではなく、わたしたち人間です。わたしたちが分かち合わないからです」があります。
まさに、イエスさまを困難な、苦しみの中に追いやったのはわたしたちです。イエスさまと交わり、イエスさまと共にし、イエスさまと分かち合いをしていれば、救いへの道は違っていたのかもしれないとさえ感じる、今年のわたしにとっての四旬節です。
今日のマタイの受難物語は、人間の醜い欲望やエゴイズムによって傷つけられ、抹殺されていくイエスさまの姿が特徴的です。究極の孤独と苦しみに追いやられ、「神よ、神よ、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と叫ぶほどに、その支えをもなくされていきます。
人から排斥され、しかも、心血をかけてきた愛弟子たちからも見放されていったのです。この事実をはっきりと認識できる今年の聖週間でありたいと思います。「わたし」の救いは、無実なイエスさまの苦しみの上に実現されたことを、改めて感謝することでしょう。それに圧倒されるほどに感じることができれば、もっと楽になれるのかもしれません。
新たな決意を添えて、イエスさまの受難を分かち合ってみましょう。
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