四旬節第4主日(A年)の説教=ヨハネ9・1~41
2011年4月3日
この世に生を受けているわたしたちは、みな、誰かに期待され、望まれて今があることを片時も忘れてはいけないと思います。人からも、もちろん神からも。
人が置かれている環境は、人によって違いがあり、その違いが都合のいい場合と悪い場合もあります。基本的には、この「わたし」にとってのいい場合と悪い場合です。
イエスさまとユダヤ人の関係も、イエスさまの力を正しく評価できないユダヤ人によって、イエスさまご自身を陥れようとする試みへと発展します。いつまでもギクシャクとした関係が続きます。同時に、イエスさまによって救われ、癒された人々との間でも、イエスさまと同じような関係となっていきます。
今日の生まれながら目の不自由な人とイエスさまとの出会いの話でも、癒された男とユダヤ人とは真っ向から対立します。長い話が続きます。癒された男は、確信に満ちて一歩も引き下がりません。
こうした肉体的にハンディを背負った人たちには、イエスさまとの出会いの際、必死になってイエスさまに訴えかける迫力がうかがえます。なぜそうなのでしょうか。目が不自由であったり、手足を病んでいることは、大きな重い十字架です。人生に大変な負担を抱えることになります。健康な人々のように自由に生活を楽しみ、はつらつとした将来への道が閉ざされているのです。
にもかかわらず・・・、だからこそ、こうした人々は、人間の存在のもろさ、限界をしっかりと感じているのです。健康な人が容易に気づかない弱さ、悲しさを抱え、救いへの望みに渇ききっているのです。
パウロは言います。「恩寵の力は弱さの中に全うされる」と。つまり、神の恵みは、その人の中で自由に働くためには、「過信」があってはいけないのです。「見えていると思う人は」つい、自分の力を過信して自分の真の姿を見つめることができにくくなってしまいます。
そこでイエスさまは言われます。「見えないものは見えるようになり、見えるものは見えなくなる」(39節)と。
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