年間第2主日(A年)の説教=ヨハネ1・29~34
2011年1月16日
今年はいたって静かですが、昨年の今頃は「新型インフルエンザ」で、世の中はパニック状態でした。幼稚園現場でも、年末年始の行事の変更を余儀なくされたものです。その上、心配事が増え、体調にも大きな影響を与えてしまいます。
わたしたちは、その日常性の中で、いろいろな人に出会い、たくさんの違った体験を重ねていきます。その数もさることながら、出会った人、体験した出来事の内容にもよりますが、「いい出会い」「いい体験」もあれば、「まずい出会い」「まずい体験」もあります。
久しぶりに出会った友人が、あまりにも以前と変わってしまった体験があります。その経過を聞きますと、「このような人」との出会いが自分を変えてしまった、という話が多々あります。また自然環境によっても、見た雰囲気(外見)が変わることも普通です。わたし自身も、フィリピンにいたときは、細身で肌の色も黒っぽくなっていきました。あの当時の写真を見ますと、今とずいぶん違います。
多くの人が同じような経験がおありかと思います。わたしたちの人生における“出会い”の重さを感じます。誰に出会うかによって、その人の一生が大きく変わるからです。その変化に気づいているのは、ご本人の胸のうちだけかもしれませんが、実は、その変化がその周囲にいる人にさらに新たな変化を与えていくのです。互いが影響しあって、人の共同体は成長していきます。
聖書に戻りますと、このような経験を語る話が今日の洗礼者ヨハネと弟子たちとの出会いです。その出会いは、弟子たちにとって恵みのときとなりました。そうなったのは、弟子たちの心の持ち方もさることながら、ヨハネ自身が何かを持っていたからでしょう。ヨハネは荒れ野で叫ぶ声、光をあかしする者、ぜいたくもせず砂漠の中で純粋に神の世界を求め救いに飢え、待ち望んでいたのです。いわゆる、神に対する情熱でした。こうした彼に近づく人が、その情熱に「感染する」のは当然のことと言えます。弟子たちも純粋に、そして真実に救いを待ち望む集団となっていったのでした。
さて、現代の教会はどうでしょうか。
私たち一人ひとりはどうでしょうか。
温もりのある、情熱に満ちた一人ひとりでしょうか。
キリストを知らない人々を責めるより、キリストを知っている私たち自身を振り返ってみるといいのではないでしょうか。
わたしたち一人ひとりが、キリストを知っている者として、口先だけの信仰になっていないか、という視点に焦点を当ててみましょう。情熱はあっても空回りしていないか。自分の身勝手な思いや意見の主張は、外見はよく変わって見えても、出会う人々を明るく、温もりのある人に変えていく力とはなりえません。
それはヨハネの心とその生き方にモデルがあります。「あのかたは栄え、わたしは衰えなければならない」(ヨハネ3章30節)と。
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