年間第28主日(C年)の説教=ルカ17:11-17
2016年10月9日
秋になると、おいしい野菜が店先に並びます。中でも秋ナスは煮てよし、焼いてよし、とてもおいしいものです。今となっては古いお話になってしまうのでしょうか。「秋ナスは嫁に食わすな」とよく言われたものです。
とてもおいしい秋ナスを「嫁に食わすな」なんて意地悪な姑さんだ、と思っているとしたら、それは大きな誤解なのです。
漢方の世界では、自然界のあらゆるものを陰と陽に分けます。その中で、ナスは強い陰性を持った食べ物と考えられています。このため、これから子どもを産まなければならない若いお嫁さんには、そんなものは食べさせられないというわけです。つまり、強い元気な子どもを産んでほしいという願いから出たのが、このことわざだということです。
それは、お嫁さんの体を、姑が心配しての思いやりだったのですが、嫁いびりのように受け止められてしまったという誤解です。
わたしたちは、食べ物にしても、周囲の人からの温かい心遣いにしても、いつも、多くのことを、他者に支えられて生きています。よく考えるまでもなく、一人ひとりの誕生の瞬間からそうです。それが、独り立ちしていくうちに、自分の力だけで生きているという錯覚に陥ってしまうのです。何故って、自分で意思決定ができるようになったからでしょう。
人生の一大事に直面しますと、「自分の力を信じて」前に進みなさいという励ましの言葉をよく耳にします。ここにも「自分の力でどうにかなるよ」という意味合いの思いが感じられます。
人間、生きる極限に立たされますとどうなるのか。
今日の福音はこうした状況にある人間の姿が描かれているのではないでしょうか。病んでいる人、それも治る見込みのない病。重い皮膚病は当時はそう考えられていたのです。それだけに人の助けを必要としているのに、人からは敬遠されて相手にされない現実の中で生きざるを得ない人。どうしようもない暗闇の中に閉じ込められてしまった日々。
このような人が民衆の前に出ることが、いかに勇気のいることか。声をかぎりに遠くからイエスさまに呼びかけるしかできなかったのです。それは、あたたかい愛のぬくもりを求める叫びでもあったでしょう。
イエスさまはその人の「かぎりの叫び」を聞かれます。そして、感謝のために戻ってきたサマリア人とより深く繋がっていったのです。そして、サマリア人の「救い」の証し、信仰が高まり深まっていくのです。すべて恵みの中で。
「わたし」は「かぎりに」叫んでいるでしょうか?
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