年間第13主日(C年)の説教=ルカ9.51~62
2016年6月26日
人は、何かをしようとする時、通常計画を立て、それに従ってことを進めます。その「事」が大きければそれだけ、慎重な計画書作りになります。なんと言っても影響力が大きくなるからです。
ブラジルのリオデジャネイロにおけるオリンピック開催が近づきました。それぞれの国を代表する選手たちも出そろったのではないでしょうか。また、その選考の際には、スケジュールに則ってことを進めた各国の責任者たちの苦労があったのも事実でしょう。「選考する」ことは、同時にそれは「派遣する」ことを前提としています。
「選考」と言いますと、もっと身近なところでもありました。第40回日米大学野球選手権に出場する大学日本代表に、東京大学の宮台康平投手(20歳)が選ばれたということが、単独、新聞に掲載されていました。東大からの選出が33年ぶりということで、大きな話題になったのだと思います。
「選ばれる」ということは、なにかの「任務」が託されるということでもあるのではないでしょうか。人間社会では、わが子に名をつけるときにも、親の期待と夢を託して考える親が多いようです。宮台選手も、当然のことながら、関係者の、いや、多くの方々の大きな期待がかけられていると見たほうが良いと言えます。
イエスさまも、天のおん父のみ旨を果たすために「派遣」されたのでした。それは、わたしたち人間の救いにかかわる大仕事でした。その任務を拒めば、全人類はいつまでも闇の中にとどまり、とざされたままで放置されてしまいます。それは、イエスさまの心ではありませんでした。だから苦しむのです。だから誘惑にあいます。
人間的な評価に立てば、十字架上の死にどのような意味があるのでしょうか。そんなことによって、救いが実現するはずはないという誘惑です。サマリアの人々の拒絶は、そのような意味が込められていたと言えないでしょうか。
それに反応した弟子たちの態度も、単なる「権力」への依存者です。しかし、イエスさまの道は、人から見れば何の役にも立たないと思われる死と受難にこそあったのでした。だからエルサレムに向かわれるのです。イエスさまの確信です。
わたしたちも「選考・派遣」された者として、イエスさまの道を、今の社会の中で、人々との触れ合いの中で発見していきましょう。イエスさまに期待されているのです。前に進むのみ、・・です。
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