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年間第18主日:群衆が理解しなかった聖体はカトリック教徒の原点

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年間第18主日(B年)の説教=ヨハネ6.24~35

2012年8月5日

主との出会い

わたしたちの言動には、「拠りどころ」なるものが必ずあると思います。「わたしらしさ」の原点でもあります。人は年を重ねていくと、その後ろ姿が親に似てくるといわれます。親子ですからあたりまえでしょうが、敢えて他の理由を挙げるとすれば、「一緒に生活している」ということが挙げられそうです。

お互いの話し方、歩き方、その他のいろいろな所作は、苦労しないで覚えていくことができます。というよりも、無意識のうちに「真似て」しまうのではないでしょうか。目の前に動き方、笑い方、怒りかた等の原型があるのです。そういえば、先日気付いたことですが、兄弟で笑い方がそっくりなのに驚きました。

わたしたちは何かに影響され、「わたし」を築いていくのです。「わたしは仏教徒」「わたしはカトリック教徒」であるという根拠(拠りどころ)はどこなんでしょうか。それぞれの仏教、カトリック教にあるのでしょうが、その中のどこなんでしょうか。つまり、自分が信徒として誇ることのできるところは何でしょうかということです。

今日のイエスさまのメッセージによると、群衆が分かるかどうかに関係なく、「イエスの肉を食べ、その血を飲む」ことを啓示なさいます。群衆はこのことを聞いて一人去り、また一人とイエスさまの前から姿を消していきます。それでも、このことを伝えなければいけなかったのでした。それほどに重要なことであるということの証でしょう。「聖体」に対する信仰がわたしたちを「カトリック者」らしく、してくれるのです、ということです。

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すなはち、わたしたちの信仰は、イエスさまの論理的な教えの実践にのみあるのではなく、その中心には聖体に対する信仰があることを忘れてはいけないのです。しばしば聖体訪問をして、それまでの一日の経過を報告してみましょう。そうすることで、心がゆったりとします。不信仰の時代ではなく、信仰豊かにある時代にしましょう。

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