年間第29主日(B年)の説教=マルコ10.35~45
2012年10月21日
かつて、母親のわが子への愛は無償で、永遠である、と言われたものでした。事実そのことはいまだに変わりはないと思いますが、らしからぬ現象が昨今多くなってきたような気がします。母親の愛が尊いのは、わが子に対しては「自己放棄」の愛を示してくれているからです。すべての愛の原点は、この母の愛にあるといっても過言ではないような気がします。
「自分の右と左に座らせてほしい」と頼まれたイエスさまは、どんな思いを抱かれたでしょうか。長年、イエスさまのそばで特別な教育を受けてきたにもかかわらず、イエスさまの真意を受け止めきれない弟子たち。その表れが今日の二人の弟子たちの言動にあるといえないでしょうか。しかし、イエスさまの思いは弟子たちの人間的な思いとは明らかに違うところにあります。
人の子が来たのは、「仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして自分のいのちを与えるためである」からです。「仕える」ということは、他人のしあわせのために、尽くすことが求められる行動です。自分の利益、権利を放棄する覚悟が求められます。さらに、見返りも期待していないのです。この姿がわが子を受け取る母の中に見ることができるのではないでしょうか。
ここに真実の愛があります。つまり、愛がなければ自己放棄できる勇気は生まれてこないのではないでしょうか。お母さんは子どもに対してごく自然に振る舞います。そして、その行為を惜しいとも思わないし、損をしているとも思わないのです。むしろ、安らぎとよろこび、躍動感をも感じるといわれます。まったくの無償の愛です。
身近な弟子たちの理解なき行動があっても、イエスさまを支えたのは、それ以上の人間への愛でした。羊のように疲れ果てた人々をあわれに思う心がその原動力でした。きらびやかな服を着ていても、いくら強がっていても、人間はイエスさまにとって悲しい存在として映ったのでした。だからこそ、こうした人から目をそらすことができなかったのです。「母がふところの子を忘れようか。よし忘れるものがあっても、わたしは忘れない」(イザヤ49章15節)。母親以上の愛で、人間のことを思っておられる神の心をうたったものです。
あの二人の弟子も、ついにはイエスさまの真の弟子になりました。イエスさまのこの愛を理解し、生きようと努め、生き抜いたのでした。わたしたちも「真の弟子」になりたいです、・・・。
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