年間第30主日(B年)の説教=マルコ10.46~52
2012年10月28日
わたしたちは毎日、たくさんの方と出会い、いろいろな出来事に遭遇し、知らず知らずのうちに、それらに感化されています。その体験が豊かな人ほど、人間性が豊かであり、平安であり、やさしく、そして力強さを感じるものです。
「あなたが信じる神さまはどんな方?」と尋ねられたら、あなたはどのように返事なさいますか。「あなたのお子さんはどん方ですか?」と質問されたら、どのようにお答えになりますか。前者の場合は、しばらく考え込むかもしれませんね。後者はさらさらと出てくるのではないでしょうか。しかも、マイナスポイントがやたら多く。
身の回りのことに影響されるのは普通だとしても、五感に感じられない「もの」に関しては、意外と分かっているようで、その実、十分に分かっていないことが多いようです。別の表現をすれば、神に影響されるほどに生き方をしていないということでしょうか。苦しいとき、辛いときには神を思い出しますが、・・・。普通の人であれば、だれにとってもそのようなことが言えます。
だからこそ、カトリック教会が信じるイエスさまは、わたしたちと同じ姿をお取りになって、人間の印象に残り、よりわたしたちに身近に寄り添うことを決定されたのでした。つまり、人間性をおとりになる事によって、わたしたちの悲しさにふれ、傷つき倒れそうな人間の弱さに嘆かれ、迷う人々を思いやってくださることがおできになったのでした。
今日の福音では、道端に座っている目の不自由な方の救いの話です。光を失った彼の叫びは心の底からの願いで、その彼の本心にふれ、その気持ちを感じ取り、見逃すことをなさいませんでした。多くの人はしかりつけて黙らせようとしましたが、イエスさまは彼を呼び寄せられます。イエスさまの存在そのものが、こうした恵まれない人々へ向けられたアンテナとなって、些細なことでも見逃さないやさしい鋭さで、救いへの道に招かれるのです。
「あなたが信じる神はどんな方ですか」と問われたら、人間の悲しみ、痛みに敏感な方です。そして、あたたかな恵みで、やさしく包み込んでくださる方です、と答えることができるでしょうか、・・・。
その答えは、「わたし」の日々の、今の生き方に隠されています。
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