待降節第4主日(A年)の説教=マタイ1.18~24
2013年12月22日
先日の讀賣新聞・西部版の朝刊、「編集手帳」の欄に、やなせたかしさんの話が掲載されていました。「秋に94歳で死去した漫画家やなせたかしさんは、中学2年まで夜尿症が治らず、友だちから『寝小便たれ』とはやされたという。・・・そういえば『ドラえもん』ののび太も、ジャイアンに横暴を先生にいつけたりはしない。かつてはそれが子ども世界のルールだったと思われる。」とありました。
なにもいじめを推奨するのではないでしょうが、教育の困難さと影響力の大きさが時代の流れの中で変化していきます。
あまり他人が知らないであろう情報を入手した時って、何か優越感(?)を抱き、誰彼となく話したくなる誘惑に駆られたりしませんか。それが人の命乃至は生き方にかかわることになれば、その責任の大きさが問われかねません。やなせたかしさんの事を知った記者、人はどんなだったのかなと、くだらないことを思ってしまいました。
これと似たような現象、といえば無作法な言い方になりますが、今日の福音書に登場するヨゼフは、まさに、当時の人びとが知りたかった情報の渦中の人物になってしまいました。それというのは、メシア、救い主の現れの「お告げ」を受けてしまったのです。
マリアの身ごもりは、すぐにうわさとして広まったのでしょう。いいなずけであったヨゼフは、「正しい人」ゆえに「縁を切る」ことを選択します。ここまでは人の世界の悩み、うわさのレベルです。ヨゼフは「ひそかに」縁を切ろうとするところに、天使がマリアの身ごもりの真実を説明し、諭します。ここにまたヨゼフの「人のよさ」がにじみ出ます。律法上マリアをおもんばかったヨゼフは、神のみ心にも忠実なよい人だったのです。ヨゼフの正しさと忠実さ(受諾)が、わたしたちに救いをもたらしてくれました。
このことを感じ、いつも「わたしたちと共にいてくださる」イエスさまをありがたく思えることが、イエスさま誕生のよりよい準備となっていきます。ヨゼフの姿の中に、秘密のことを知ったとしても、どう反応するのか、戸惑いながらも、静かに前に進む大切さを感じます。
今の生活の中で戸惑いがあるのであれば、それでも前に進みながら希望し続ける時、ヨゼフの「戸惑い」が安心感に変わったように、わたしたちの中でも実現します。今は待降節なのです。
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