年間第13主日(B年)の説教=マルコ5.21~43
2015年6月28日
人生、過ぎてしまった「自分史」を振り返ってみますと、幸せな楽しかったひと時よりも、苦しくてつらかった日々が思い出されるのではないでしょうか。そして、そのことが、もっと生きようとするわたしたちの行き先を阻み、さらに窮地に追い込んでいくことがしばしばです。
とはいうものの、「窮地」が恵みの時にもなります。なんとなく無難に生きてきた道のりを振り返り、真の道のりに目覚める時にもなります。いずれにせよ、わたしたちは誰もが幸せな生活を求め、願うものです。そこには、その人の家柄、地位などは関係ありません。
また、このことは今も昔も変わらないと思います。親が子を思う心、慈愛に違いがないように、国、民族を超えた関心事であります。ただ、「人である」ことが共通しているだけです。
誰もが、充実した生き方を目指しながらも、その現実は「だらだら」と生きてきたなと感じられる人もおられるのではないでしょうか。でも、人生の転換期なるものも同時に感じているものです。その時期、中身については一人ひとり違いがあるでしょうが、・・。
今日の福音に出てくるヤイロの話は、「転換期」に関する話のような気がします。日常の生き様の過程で、一度苦境のどん底に落とされた者がどのように目覚めていくのかが示されているようです。
会堂の司の役を引き受けていたヤイロは、最愛の娘が重い病に襲われてしまいます。身分も経済力も保証され、家庭円満で幸せな日々を送り、順風満帆な人生が、娘の病と同時に苦しさ、辛さのドン底に追いやられてしまったのでした。
さらに、自分には何もできない無力さを感じたのでしょう。ヤイロはイエスさまの前で「足元にひれ伏して懇願した」のでした。
最愛の人が苦しみぬいている姿を目の当たりにしますと、人は何が何でも救いの力になりたいと思うものです。ヤイロにとっては自分の娘です。でも、行き詰ってしまいます。思うようにならない状態であるとわかりますと「祈り」に変わっていきます。
こうして、本来の、真の神と人との関係に気づかされていくのです。自分の身分、恥もかなぐり捨てて、彼の真の姿をイエスさまの前にさらけ出します。そして、娘は癒されます。
苦境の中で、愚痴を祈りとしてささげ、謙虚になる時、目覚めさせていただきます。「恐れるな、ただ信じよ」。
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