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年間第11主日:神との関係を保つこと、その中に「神の国」はある

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年間第11主日(B年)の説教=マルコ4.26~34

2015年6月14日

message-eyecatch2「親は自ら教育を」。「家庭について」の講話の中で、教皇フランシスコは語っています。「親は子どもたちの生活から自分たちを遠ざけるのではなく、『専門家』たちが何を言おうと、子どもたちの教育に積極的な役割を果たさなければならない」と強調なさいます。「専門家たちが保護者の役割を奪ってしまい、教育の最も親密な側面にさえもかかわり」、保護者たちの役割はただ「聞いて、学んで、適応する」ことだと教え込んでいる、とまで指摘しています。

教皇がここまで語っている背景には何があるのでしょうか。単に親の「役割」の視点からだけではないとわたしは思います。親子の関係性があるのではないでしょうか。人は生まれながらにしてその能力を内に秘めています。その能力がいかんなく発揮されるのが、親と子の関係の中です。そこには駆け引きも不安もないし、甘えることができる安心、安泰な関係だからです。育ちの環境が整えば、自ずとその能力は開花していきます。

今日の福音書の中には「神の国」という表現が幾度となく出てきます。具体的になにを指しているのか現代のわたしたちにはわかりにくいものです。「国」という表現にはわたしたちの先入観があります。どうしても領土と結び付けがちで、「場所」という観念でとらえてしまいます。

今日のイエスさまの話は、一つは、わたしたちに神の国についての固定観念、先入観の訂正を求めるものです。そして、神の働きを人間の感覚でとらえ、確かめることはむずかしいということをおっしゃっています。ある時には神の現存を感じ、感動することもあるでしょうが、長い人生の中では稀です。むしろ、自分の弱さ、ふがいなさ、醜さを感じるほうがはるかに多いし、これらから解放されることもないのです。

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今日のイエスさまの話は、こうした現実を抱えながら生きているわたしたちに、大きな慰めを与えてくれます。わたしたちが感じるか否かに関係なく、神は「静かに、人知れず」わたしたちの弱さの中で働かれるのだとおっしゃいます。パウロも言っています。「弱さにおいてこそ、力は余すところなく発揮されます」(Ⅱコリント12章9節)と。

神との関係を保つこと、その中に「神の国」はある、ということでしょう。そのかかわりを意識できれば、解放も間近であるといえます。わたしたちに大事なことは、信じている神にゆだねることのみです。これまた難しくて、日々葛藤です。

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