
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第29主日(A年)の聖書=マタイ22・15~21
2026年10月18日
わたしたちが、なにげなく日常使っている言葉、表現でも、その意味を知って使っているのかどうか、あえてその意味を問われると、明確に分かっていないものがあるような気がします。
つまりは、情けは人のためではなく、自分のためであるという意味ですね。
そのほかに、混同して使っているかもしれないことばに、「批判」と「非難」があるのではないでしょうか。
過日、「デジタル化」が叫ばれ、さらなる高度な技術が進み、ますます情報「急速化」がその先陣を争っています。その一方で、技術の発展が思いのほか速く、その動きにブレーキをかけなくてはいけない、と、その「鈍速化」を提唱し始めた技術家が現れ始めました。
一連の報道を目にしたり、耳にしたりする中で、やはり帰り、落ち着くところは「アナログ」の社会なのかな、と・・。物事の綺麗さ、便利さ、速さから言えば、確かに、見劣りはするものの、なんといっても安心、安全です。とはいっても、・・・今後、どうなっていくのでしょうか。もっとややこしくなっていきそうです。
いずれの社会においても、正、負の部分はあります。それぞれの「正」の部分をいかに拡大し、活用していくか、良識ある人間の知恵がものをいいます。わたしたちは「正」をさらに「良正」にしていくことができます。そうした社会になっていけば、発展、進歩していく社会が躍動感にあふれ、「行き過ぎて」ブレーキを踏むことも必要なくなるでしょう。でも、そういかないのが人間の社会です。自らの能力を「負」の方へ使おうとする「欲」が頭をもたげてくるのです。

時代を大きく遡って、イエスの時代においても同じようなことが言えます。ファリサイ派の人々、ヘロデ派の人々、律法学者等、それぞれお互いが結託し、イエスの言葉じりをとらえようとして罠を仕掛けていきます。いわゆる、彼らの、いただいた能力の「負」の部分がむき出しです。きょうの福音書でもそうです。
「ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。『先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。』」(マタイ22・15~17)
イエスの答えは次の通りです。
「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。』彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」(マタイ22・18~21)と。
追い詰められたイエスの答えは、実に見事なものです。でも、彼らの質問に対する答えとしては、前半部分だけで十分なのに、「神のものは神に」と付け加えています。なぜなのでしょう。イエスの宣教活動の基本的な姿勢は、「人」を大事にすることです。相手の人が、たとえどのような人であっても、おん父の救いの対象から漏れてはいけないのです。意地悪な人、策略を仕掛けてくる人、偽善の塊のような人であったとしても、救いの手を差しのべていきます。
今、目の前にいるファリサイ派の弟子たちとサドカイ派の人たちにも、おん父のやさしさ、大きさ、広さを、イエスはお示しになります。「神を思いだせ、どのような神か、神はあなたたちに何をしてくれたか」という事実に目覚めさせようとするのです。イエスは、あくまでも、その考え方、動きは「アナログ」です。なんといっても、温かい情が流れています。
今もなお、この時にも、イエスは、この呼びかけを、わたしたちに続けておられます。


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