
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第23主日(A年)の説教=マタイ18・15~20
2026年9月6日
日頃はあまり気にしていないこと、というよりも、気づいていないこと、といったほうが良いのかもしれません。つまり、自分が隣人から受けた「人生の贈り物」には何がありますか、ということです。わざわざ、熨斗紙をつけて、ということではなく、日々の生活現場において、それらは起こっていることです。
ある時は、お互いの会話において、またある時は、その動きを見てありがたくいただく「もの」ってあるのではないでしょうか。わたしたち一人ひとりは、例外なく、人間としての自分の尊厳を確立するのは、孤立によってではなく、隣人及び神との関係に自分を置くことによってであろうと思います。したがって、わたしたちは多くの方々に感謝の心を、気持ちを表現しながらの人生を送っていることになるでしょうか(?!)。自分の周りにいる人、親しくは親、兄弟姉妹、親族、友人等、さらには彼らを通して広がる繋がりの輪、思い出せないほどに多くの人々に囲まれています。
その中で、印象に残っていること、さほどでもなかったが、強烈な影響を受けていることなど、一人ひとりによって、受けた結果には温度差があるでしょう。しかし、確かに「受けたもの」はあったはずです。それを心に留めているか否かですよね。それによって、飛躍した言い方、思いになってっしまうかもしれませんが、そこに、悪い行為が生じるか生じないかではないでしょうか。ちょっと跳ね上がり過ぎましたかね。お許しください。
日本における教会は、信者の数からいって、総人口の一パーセントにもなりません。ということは、理想を異にする社会の輪の中で、極小の一粒にすぎないのです。そして、科学、技術、医学、経済的繁栄、発展の恩恵を受けて生きていることも確かです。その中にあって、福音の光に照らされた考え方や生き方が、教会の中から消え去っていく危険があることも確かでしょう。わたしたち人間は、例外なく安易な道へと引きずられていきやすいのです。意識的に求めてそうしているのかどうかは分かりませんが、人によっては、ある時気付けば、どっぷりと安易な場所に居座っています。
でも、不思議なことに、きょうの第二朗読にあるように、
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ロマ書13章9~10節)
わたしたちの間に愛の心が息づいているなら、確かに悪い行いは生じないはずです。しかし、現実は、ちょっと違いがあるのではないですか、とイエスはおっしゃっておられます。その言動の矛先は教会内に向けられています。わたしたちの共同体内ではどうでしょうか。「悪」から自由になり切っているといえるでしょうか。

だから、きょうの福音では兄弟(教会の仲間)が自分に罪を犯したときの対処法が細かく指示されています。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。」(マタイ18・15~17)と。
ところで、ここで大事なことがあります。「忠告する」と訳された言葉です。この動詞は、雨宮慧神父(あめみや さとし・カトリック東京教区司祭)によりますと、「光の下に連れて行き、光にさらす」の意味です。過ちを認めるようにと神の光にさらすことが求められています。したがって、自分の考え、判断に従わせることではないのです。自分で裁いてはいけないのです。あくまでも神はご自分の救いの業から漏れる人があってはいけないのです。
先週の福音でもそうでした。イエスに「サタン」呼ばわりされたペトロを「あなたは消えて失せろ」とは言われていないのです。「立ち位置」の確認をするようにという忠告でした。
きょうの福音で、わたしたちに求められていることは、悪人が神の警告を受け入れるようにと語る事(福音宣教)であり、それに失敗すれば責任を問われます。それほどに懸命に神の言葉が語られたとしても、悪が消え去らないとしたらどうなるでしょうか。
神の愛、キリストの愛に目を向けても悪が消えない時は、キリストの名によって集まり、ともにおられるキリストに助けを求めることです。「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18章20節)と言われます。
人間の間の相互愛は、神とキリストがわたしたちに示された愛に対する返礼です。そのことにいくら努力したとしても、神とキリスから示された愛にたいする借りが残るのです。それだけ神とキリストからのわたしたちへの愛は大きいということです。
今日の福音を受け止めるために、その前提となるもう一つの大事な話があります。
「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18章12~14節)
教会は、罪を犯した仲間には、心にかける神の思いを知らせ、語らなければいけないのです。その目的は、非難するため、中傷するためではなく、仲間を得るためです。滅ぼしてはいけないのです。
神はわたしたちの滅びを望まないのです。


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