
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
年間第16主日(A年)の説教=マタイ13・24~43
2026年7月19日
わたしたちの日常生活の中で、マスコミを通して知らされる言葉で、気になるものがありませんか。わたしにはあります。「逆走車」とか「煽り運転」とか。中でも、「煽る」という言葉が気になり、調べてみました。それによりますと、以下の説明がありました。
ちょっと長い引用になりましたが、言葉の持つ力、それが及ぼす範囲の広さ等、日常の言葉使いには慎重さが求められますね。
その言葉をうまく活用して、他者への売り込みを続けてきたのがイエスです。つまり、イエスの宣教活動です。イエスの元に集まってきた群衆は、さまざまな人がいました。時の流れとともに、イエスを慕いイエスを信じる人々の共同体が出来上がってきます。一つの共同体が出来上がると、自ずとそこに指導的立場に立つ人が出てきます。人間の集まりですから、指導的立場に立つ人が、共同体のメンバーの中から、する役割を果たす人を選んだり、その際に、どこにでもありがちな、やっかみからくる他者批判、非難等、他者を裁きあってしまう傾向が出てきます。このような姿を見て、イエスは「毒麦ののたとえ」を話されたのではないかといわれます。いわゆる、「裁きあう」ことの愚かさ、空しさを指摘し、気づいてほしかったのです。
イエスを慕ってくる人には、いろいろな人がいたはずです。社会的に認められた地位にある人とか、社会の底辺で苦しみを背負いながらも一生懸命生きている人、また、社会的に罪人といわれていた税吏や大酒のみなど、その反対に模範的な人もいたでしょう。

こうした様々な人の群れを前に、イエスの説教、奇跡等を、みなが全てを同じように理解し、受け止めることなどあり得ません。それには温度差があります。しかし、外見から一人ひとりの心のうちは分かりません。その優劣、真偽を確かめることは無理な話です。
これと同じように、麦も毒麦も育ちの初期のころ、実をつけるまでは全く判別ができないと言われています。したがって、農民は収穫の直前までそのままにしておきました。イエスは農耕法に関するこの現実の知恵を借りて、天の国のありさまを語ります。
毒麦を収穫するときは、「今」ではなく、「刈り入れの時」です。その時、毒麦は必ず焼き尽くされます。イエスはそのことをご存じであるがゆえに、悪に対してあわれみ深く、忍耐強く宣教されるのです。イエスのたとえに耳を傾け、そこに「天の国の秘密」を聞きとることができる人が「弟子」であり。聞き取れない者が「群衆」です。34節では、それまでイエスの言葉を聞いていた「彼ら」が「群衆」に言い換えられています。
こういう言い方はふさわしくないかもしれないですが、宣教することは、いわば、「煽る」ことではないかと。「人の感情(心)や行動を促す」という意味で、一人ひとりをイエスの方へと押しやっていくのです。現代ではあまりいい印象を感じさせないことばではありますが、いうなれば、相手の方を「その気にさせる」というような響きを感じさせます。別の言葉で言えば、あくまでも最終的に「その気にさせる」のはその人本人ですが、いい刺激を与えて聴き取ることができるように心の扉をたたいているのがイエスです。
それは昔のことではなく、今もなお、わたしたちに向けて続けられています。


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