復活節第3主日(B年)の説教=ルカ24.35~48
2015年4月19日
時代が変わり、いくら技術が進んだ時代になっても変わらないことというものがあるんですね。数えればきりがないのかもしれませんが、・・。先日の讀賣新聞に次の歌が載っていました。「玉葱の皮剥ぐ時に易々と人にも見せて涙ながせる」(富小路禎子)と(2015年4月15日西部版朝刊)。玉葱の皮をむいて料理を作ると、昔から自ずと涙が出てしまうのは時代を超えて、民族を超えて共通していることのようです。今も同じですよね。
ところが、時の流れとともに確実に変化することもあるようです。それは言うまでもなく人の成長でしょう。子ども時代にあった人に、大人になってお会いすると、どこの誰であるかが全くわからないことはよくある話です。あまりの変わりように唖然としてしまいます。とはいっても、外見の変わりようと中身の変わりようでは、目に見えるほうがどうしても先に気になってしまいます。
そして、復活したイエスさまの出現を体験した11人の弟子たちにも、不思議な現象が起きました。明らかに何かがあって「大変身」してしまったのでした。それというのも、イエスさまの十字架を前にした弟子たちは、引きこもりになり、イエスさまをおいて逃げ回っていたのでした。ユダヤ人たちを恐れての反応でした。情けないほどに落胆し、失望してしまったのです。わたしたちと何ら変わりのない人間です。
それもそのはず。一度亡くなった人が、死者から復活するなんてわたしたちの常識では考えられないことです。にわかに信じられないのも当然の結果であるといえます。弟子たちも信じられず、亡霊を見ているのではないかと恐れおののいたのです。
今日の福音にあるように、イエスさまにここまでしていただかないと信じられなかった弟子たちの姿に、わたしたちは励まされているように感じます。不信仰者であった弟子たち、逃げ回っていた弟子たちの話は、わたしたちを信仰の道へと後押ししてくれているようです。つまり、信じることができなかった弟子たちが信じるようになり、「主の復活の証人」となって、その命を懸けてイエスさまを宣べ伝えたのです。だから、わたしたちも信じていいはずです。
わたしたちの信仰は、とどのつまり、神さまのイニシアティブがあってこそいただく「恵み」であるということが貫かれています。この動かすことのできない確信が、弟子たちを「使徒」にしてしまったのです。人の力をはるかに圧倒してしまったのです。変えられてしまったのです。「聖書を悟らせるために、彼らの心をひらいて仰せになった」のです。
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