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復活節第5主日:わたしが愛したように⇒自分を無にして相手に捧げつくす

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復活節第5主日(C年)の説教⇒2025/05/18

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

復活節第5主日(C年)の説教=ヨハネ13・31~33a、34~35

2025年5月18日

かつてテレビのコマーシャルで、見張りロボットとか、お年寄りの話し相手になるロボットの宣伝がなされていました。それを見たわたしは、まさかそんなことが流行るものか、と高を括っていました。ところがどうでしょう。今や、そうした時代がやってきたのです。すごいですね。

ある独り住まいのお年寄りの家を訪問したことがありました。そのお宅に、そのロボットがいたんです。優しく話しかけてくれるんです、それが。その当時でもびっくりしましたので、今どきのロボットはもっと優れたものになっているのではないでしょうか。今や留守番ロボットあり、見張りロボット、さらには、食事の接待というか、配膳の手伝いをするロボットなど、また会社の玄関先にいて客接待をやってのけるロボットなど、人間にとって代わる仕事をしてくれるロボットの開発が目立ちます。

ということを思っているところに、「おしゃべりダッキー」という「夢のお話し犬」の広告チラシが送られてきました。わたしに買えというお誘いでしょうか。その説明文を見ますと、「次から次へと言葉が出て楽しみです。可愛い声で歌ってくれるので癒されます。」「しゃべり方に元気づけられる」「家族ができたようで楽しいです」など、人が元気づけられる話が紹介されています。

このように、技術の発達により人間に代わってロボットが作業をこなし、人間の代わりを果たしてくれるようになればなるだけ、人と人との触れ合いが、関りがますます激減していきます。それにより、大げさな言い方になりますが、一人ひとりの「人間性」が減退していくのではないかと、・・。言葉の表現力にしても他者を慮った表現、語彙選び力が伸びてはいかないという結果が生じてしまいそうです。人同士の触れ合いが途絶えている期間が長くなればなるほど、この傾向は顕著になっていきます。挙句の果てには、人間としておかしな言動を、アンバランスな考えられないことをしでかすことになりはしないか、不安材料が増えてきます。

今の日本。果たしてどのような社会になっていると見ていますか。

あまり頑張りすぎて東大を狙うと、「ぐれた人間になるぞ」というようなことを世の人々に知らしめたくて殺人事件を起こすことを考え、行動に走る人がいる、また、中学校3年生が身も知らぬ行き摩りの女性を殺すだろうか・・・?、普通には考えられない出来事ばかりではないかと、・・・。

これらと似たような事件事故が、最近は多くなってきました。とても気になっています。人間本来の「らしさ」が育っていかない、育ち切れていないままに、大きくなっているのではないかと。勿体ない話です。育つ素地は身近にあるのに・・。

復活節第5主日:新しい掟⇒わたしが愛したように互いに愛し合いなさい
復活節第5主日(C年)の福音=ヨハネ13.31~33a、34~35 ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。

今日の福音は、イエスと弟子たちとの交わりの実りが「新しいおきて」となって、改めて弟子たちに伝授されたお話です。「あなたがたに新しい掟を与える。あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

「新しい」ということが何か気になります。なぜならば、兄弟愛、隣人愛は今までも言われ、勧められてきたものです。何も新しいおきてではないでしょう。それなのに、「新しい」とは。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。 愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。 いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(ヨハネの手紙Ⅰの4章9~12節)

わたしたちの愛の根拠は「神が先にわたしたちを愛された」ことにあります。その現れが「御子の派遣」です。つまり我が子をわたしたちのためにお与えくださったのです。わたしたち人間の愛は、なんといっても純粋なものというより、不純なものが入り混じっています。どうしてもエゴの世界から脱却できないでいるのです。

それにくらべ、到底わたしたち人間の愛と比べられるのものではありませんが、イエスの愛は、まったくもって純な心でわたしたちを愛してくださいます。すなわち、自分を無にして、まったく相手に自分を捧げつくすのです。イエスの十字架はまさにそうでした。そのような隣人への愛し方、ここに「新しさ」、これまでの旧約の教えとの違いがあります。

あくまでも、わたしたちは人に向かいます。神に向かいます。現代人が忘れかけている大事なことが置き去りにされないようにしましょう。今の時代に必要なことは、人間の持つ温かさに触れること、体感すること、さらには、人に助けられた体験を是非・・。振り返れば、こうした体験は、過去において実はしていることが多いです。いかがでしょうか。

「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、・・・」「

 

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