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年間第29主日:イエスの生涯を貫いたのは愛、わたしたちのそれは何なのか

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年間第29主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第29主日(B年)の説教=マルコ10・35~45

2024年10月20日

日々の報道を見ると、人の命に関する事件、すなわち、殺人等が毎日のように起きている感じがします。以前もこんなにあったでしょうか。時の流れとともに、人のいのちの価値が軽視され始めているのではないかとさえ思えます。何かにつけて、言うことすることに対する姿勢に、以前ほどの注意深さ、慎重さがなくなってきたような気がします。いかがお思いでしょうか。これは、多くの物事が便利になってきた結果の弊害が、想像もしないころに、予期しない時に出てくるのでしょうか、と思っております。

その一方で、人の生活に、その命に奉仕する人々がいるのも事実です。その事業所が、いま直面している問題があるといいます。それは、人員不足で、サービスを惜しまない業種にかかわってくれる人が、ままならない状態にあるという話しがあるのです。そのサービス業種とは、訪問介護サービスです。高齢で持病があっても、住み慣れた我が家でできるだけ過ごしたい、そんな願いを支える訪問介護サービスが危機にあるというのです。それも事業所の運営者が冊子「訪問ヘルパーがいなくなる!在宅介護の終わりの始まり」で訴えているのです。その方とは、NPO法人「暮らしネット・えん」の代表理事小島美里さんです。(南日本新聞2024年10月16日朝刊)

訪問介護はその字のごとく、自宅を訪問して介護を行います。多人数を一カ所に集めて行う施設介護と違い効率が悪く、事業所の収益につながりにくいのです。そこへもってきて、報酬の減額。コロナ禍で増えた事業所の倒産に拍車がかかるのではと懸念しています。また、慢性的な人手不足で、サービス継続や新規受付が困難になった事業所が目立つといわれています。

小島さんは不利益を被るのは経済的余裕のない高齢者と主張します。「施設入所やサービス付き高齢者住宅への引っ越しにはある程度の金額が必要です。費用を賄えず訪問介護も受けられなければ、孤立死を招きかねない」と訴えています。

また、人の命であるがゆえに大事にしようと「命のリレー」を考えている方々もいらっしゃいます。どのようなことかといえば、臓器の移植です。彼は脳死状態での臓器提供が、誰かの役に立てるならばと提唱なさいます。会社員の原口順治さん(54歳)です。

原口さん自身は臓器移植意思表示カードや運転免許証に臓器提供の意思を示していました。そうしているうちに、彼自身が膵臓と腎臓を患い、数年前に臓器の同時移植手術を受けたのです。想像できなかったほどに元気になり、今人生を楽しんでいるそうです。ドナーとその家族には感謝してもしきれませんとおっしゃいます。せめてもと思い、月命日には寺や教会で手を合わせておられるそうです。

臓器移植は「命のリレー」と呼ばれています。ドナーからいただいた臓器は、移植を受けた人が受け継いで動いています。今も生きているのです。命のことや臓器提供の意思について、家族や大切な人と話し合う機会を設けてください、お願いします、と呼びかけています。(同上紙)

いつの時代にも人のいのちは大切にされてきましたし、事実そうです。なぜって、なんといっても、わたしたちの信仰から言えば、「神に似せて創られている」からです。それがゆえに、イエスは弱い、さらには、ふしだらな足りないところだらけのわたしたち人間を、こよなく愛され続けられたのです。その極みは、十字架上でご自分を、わたしたち人間の救いのために、お捧げくださったのでした。

その間の弟子たちのとった振る舞いといえば、不足だらけな、失礼な、さらには無礼な態度が続きました。その態度の無礼は、十字架の刑を前にしたイエスを見捨て、逃げ去ってしまったのでした。イエス復活後の弟子たちへのイエスの対応は、なんと優しい、温かなものでした。弟子たちにされた裏切り行為をとがめることなく、むしろ豊かな祝福と恵みを注いでくださったのです。そうでした。

年間第29主日:偉くなりたい者は皆に仕える者になり、すべての人の僕になりなさい
年間第29主日(B年)の聖書=マルコ10・35~45 〔そのとき、〕ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

きょうの福音で言われていることは、自分たちの人間的な欲望を満たすことだけに気を取られている弟子たちに言われます。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と。

イエスは人間のこうしたよわよわしい姿、みじめな姿から目をそらすことができないのです。それほどに、人間を見捨てることができないのです。これが神の心なのです。わたしたち人間を救うためであるならば、イエスはどんなことでもなさいます。自らがボロボロにいなってもかまわないと覚悟を決めておられます。「仕える」こと、これは、他人の幸せのために尽くすことを求める言葉であり、行いです。そして、わたしたちのために、実際にそうなさったのです。人々から軽蔑され、ののしられ、捨てられ、苦しさに打ちのめされたのです。

イエスの一生を貫いた導き手、それは、わたしたちに向けられ続けた愛だけでした。

 

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