年間第15主日(A年)の説教=マタイ13・1~23
2023年7月16日
あなたは新聞の何面を先に読みますか?
かつて、先輩から次のような質問を受けたことがありました。「君は、新聞を読むときにどのような記事から読む? 例えば、紙面で言うと第一面からか、三面記事からか」と。まだ若い頃は、何も決めて読んでいた覚えはありませんが、目につく内容から読んでいたような気がします。何となくですね。だから見出しの大きいニュースが目に入りやすいです。新聞社としても読んでほしいから大きくしているのでしょうか? でも、重大なニュースだからでしょうね。
それが今では、明らかに変わりました。紙面を見るのは最後のページから見るんですが、関心のある、今の自分にとって身近なニュースから読んでいますね。やはり、今の仕事と関係がある報道はすぐ気づいてしまいます。当り前の話でしょうが、・・そちらのほうの関係ニュースに向いていますね。それから予想される他の関係ニュースにも、詳細はどうなっているのか追求していくような読み方が多くなりました。満足いく結論はなかなか得がたいですが、・・。それによって自分の考える内容、その広がりについて意見を持てるようになっていくのでしょうね。
そこで、先日の新聞で気になる投稿記事が目に入りました。(南日本新聞2023年7月7日、8日朝刊)
”少子化対策”に対するお二人の意見から
それは二人の方からの記事で、いずれも「少子化対策」に関する内容になっています。
耕さず種を蒔く農法では収穫の率は悪い
今日の福音朗読は、種まく人のたとえ話です。日本の農家の人からしますと、今日の話はなんだか奇異な感じがするのではないでしょうか。日本のお百姓さんには考えられないような種の蒔き方だからです。日本ではまず土地を耕してから蒔くからです。ところが、当時のパレスティナでは、耕さずに蒔いたそうです。
まずは、種を蒔いてそのあとで、土を耕していたのです。わかりきったことですが、無駄になる種が当然のごとく数多く出てくるのです。その結果、収穫の率もいいはずがありません。それでも、農夫は種を蒔き続けます。ひたすら、豊かな収穫を信じて、・・。
にも拘らず!イエスは群衆に語り続けた
イエスは群衆の前で語ります。そして、イエスの話を聞く民衆はさまざまです。したがって、イエスの言葉をどのように受け止めるか定かではありません。抵抗や敵意にみちた人もいれば、好奇心満載の人、興味本位の人もいたでしょう。人々の受け止め方がどうであれ、イエスはひたすら語り続けます。イエスの生き方、語り掛けが徒労に終わるかのようであっても、農夫がその実りをひたすら信じて種を蒔き続けるのと同じように、神の言葉を宣べ伝え続けるのです。宣教活動は、すぐに実りが目に見える形で報われることはありません。が、しかし、宣教する人は、神のみ言葉は必ず豊かな実りをもたらすと信じて自らを励ましていくのです。
天の国の秘密を明かすイエスの「たとえ」を聞いても、心を閉ざして悟ることが出来ない群衆に比べ、弟子たちは天の奥義を悟り、ますますイエスに結ばれていきます。この違いは何でしょうか。それは、聞き手が「天の国の秘密を悟ること」へと開かれているかどうかにかかっています。これは人間の努力によってどうにかなるものではなく、神の恵みです。したがって、「天の国の秘密を悟ることが許されている」と表現されています。
収穫を信じてあきらめず宣教するように
現代に生きるわたしたちへのイエスからのメッセージは、「豊かな収穫を信じてあきらめずに宣教するように」と励まし続けておられるということです。
それは、多くの民衆が「見ても見ず、きいてもきかず、心で悟らない」人々ばかりであったとしても、イエス自らが語り続けたようにです。み言葉が豊かで強い生命力を持っているからこそ、イエスの言葉が無駄になるかもしれない「聞き手」であっても、語るのをやめなかったからです。それで、イエスはいつも民衆の前に立っていました。
わたしたちも人々の中に立っています。当時のイエスと同じ環境の中にあります。要は、わたしたちが人間としてまず己の弱さと対峙し、その上で神の前に素直な自分になっていることです。神の言葉を受け止める一人ひとりの心です。その限りにおいて、神の声は「わたし」の中に浸透していくでしょう。そのようにイエスはわたしたちに約束してくれているからです。
わたしたち一人ひとりがそう心がけていけば、心はより肥沃な「土壌」(受け止める心)を形成し、イエスの言葉、福音が育つ土壌として、ますます肥沃になっていくことでしょう。
二人の投稿者の嘆き節も、歓喜の叫びに変わっていくのでは、・・。そうあってほしいですね。
わたしたち一人ひとりの生きる宝物を得るために。
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