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年間第13主日:隣人愛を真実のものにし、永遠のものにするイエスの教え

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年間第13主日(A年)の説教

2023年(A年)説教の年間テーマ=み言葉は「救い」の見極め

年間第13主日(A年)の説教=マタイ10・37~42

2023年7月2日

最近、頻繁に「○○活」ということばを聞いたり、新聞等で見たりします。「婚活」「就活」「終活」等です。そして、それらを支援する会社も設立されているんですね。自主的なボランティア活動があるとは聞いてはいましたが、会社を設立して「○○活」を後押しすることが商売になってしまうとは、・・。最近ではなんでも「あり」ですね。

新聞で発見した「半下石おたすけ隊」

一方で、「○○お助け隊」なる言葉が消えていったような気がしています。これこそ、基本的には困った人に手を差し伸べて、それこそ「お助け」する民間グループです。このようなことを考えているところに、「困りごとにお助け隊」という見出しを発見しました。(南日本新聞2023年6月27日朝刊)

それは、過疎化高齢化が進む錦江町馬場の半下石集落(鹿児島県)で、新たに発足したそうです。それこそ住民のための「半下石おたすけ隊」です。この地域の50~70代の女性14人が、掃除やゴミ出しなど、日常生活での困りごとを有料で手助けするものです。料金を明確にすることで、野菜や酒などの過剰な見返りを断り、「小さなことで頼みにくい」といった悩みを解消する狙いもあるとのことです。

代表の半下石和枝さん(75歳)もおっしゃいます。「手伝いは普段からしてきたことだが、お菓子やビールなど、料金以上のものをもらうこともあった。料金が発生することで、おたがいに気遣いが減り、相手も頼みやすくなるのでは」と。

また、依頼や支援者の調整、料金の徴収は民生委員の半下石良子さん(68歳)が当たります。彼女が語るには「車の免許を持っていなかったり、山の中に住んでいたり、一人暮らしの方が多い地域。困っている人の手助けになれば」と、あくまでも謙虚です。

わたしたちは皆、自分の毎日の生活が、近くは家族によって支えられ、広くは周りの多くの方々に支えられていることを知っています。だからこそ、その人々のこと思ったりして、当然のこと、その人々を大事にしています。

人への愛が真実な愛となるための条件

ところが、今日の福音でイエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われるのです。ところが、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」(1ヨハネの手紙4章20節)ということばがあります。これまた聖書にあります。イエスの先の言葉と、なんだか矛盾したものを感じてしまうのですが、・・。

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しかし、今日の福音のイエスの言葉は、人への愛を否定するものではありません。先のイエスの言葉は人への愛が、本当の意味で真実な愛となるための条件と考えればいいのではないでしょうか。親を愛し、妻を愛し、子を愛する愛が真実の愛となり、永遠であるためにイエスから学ばなければいけないということです。つまり、十字架という出来事のうちに、生きるべき道を見出し、それを獲得するためにイエスとの関りは不可欠です。

”わたしがあなたがたを愛したように”

39節の「自分の命を得ようとする者」とは、イエスとの交わりを持たずに生きようとする人のことです。人が探し求めて見出すものは、本来、恵みとして与えられたものです。逆に「イエスのために自分の命を失うもの」は生きるべきいのち、すなわち自分自身と自分が愛する者たちを見出すことができます。隣人愛がより高められ、永遠のものとなっていきます。神からの命を失わないのです。

だから、イエスとの交わりを維持しながら、イエスの心を学ばなければいけないのです。そこから真実の兄弟愛、隣人愛が育っていきます。人間的な打算が入ってくる余地がありません。

イエスは別の個所でも、弟子たちを派遣するにあたりおっしゃっておられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15章12~13節)と。

ここで「わたしがあなたがたを愛したように」ということばは、兄弟愛、隣人愛を質的におおきく高めた言葉です。すなわち、兄弟愛の理想がイエスご自身になっているということです。イエスがその生涯で示された心の広さ、深さ、豊かさが、新しいおきての基準とされたのです。

イエスの言葉と行い=隣人愛のモデル

現代でも、人がいる限り、悪い、いけないこともたくさんありますが、良いこともあります。いけないことは、多くの場合、一人ひとりが自分の気分に左右され、自分たちの目先の利益、自分勝手さに惑わされ、しかもそれは一時的なものにすぎないのに、ずるずると引きずり込まれていくのです。そこに働いているのは、与えることに喜びを感じるなんてまるでなく、要求すること、奪い取ろうとする気持ちだけが働いているのです。隣人愛のモデルとしてのイエスの姿には程遠いのです。比べることすら無礼に当たるほどです。弱く、もろく、長続きしないのです。愛しているように見えても、どこか冷たさがあり、エゴイズムが混ざり、時にはごまかし、打算が入ったりします。悲しい、どこかさびしい経験です。

イエスは人を大事にしたからこそ躊躇なく十字架にかかり、弟子たちを派遣してくださいました。救いの業をつなぎ続けるためです。

「半下石おたすけ隊」も、高齢者を大事に思い、打算なき「お助け愛」を実践なさっています。必ずやますます温かさが広がり、より人間らしく生きる喜びをいくつになっても感じられる共同体になっていくことでしょう。

神の導きと祝福と恵みを願いつつ。

 

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