復活の主日/日中のミサ福音=ヨハネ20・1~9
2023年4月9日
主のご復活おめでとうございます。
わたしたちキリスト者にとって、日々の生活の出発点は歴史的な出来事の中にあります。一人の人・イエスの一挙手一投足に大きな意味があるからです。
イエスの誕生から死と復活は歴史的事実
そのイエスがガリラヤという具体的な場所で、民衆に語り、会話し、奇跡を行い、その結果、ユダヤの人にねたまれ、憎まれ、邪魔者あつかいされ、挙句の果ては十字架につけられて殺されたのです。そして、イエスは復活します。これまた、歴史上の事実です。この上に、わたしたちの言動のすべては根拠を置いています。
イエスの弟子たち・12使徒も、自分たちこそ復活の証人であるという自負心と誇りを抱き、意気込みが感じられます。イエスの復活を自分の目で見、手で触れたことの証人であるという意気込みです。いわゆる、復活が人間の創造による創作、つくり話というのではなく、弟子たちが見、聞き、触れたことのある出来事・復活の上に成り立っているのが、わたしたちの信仰なのだ、ということの宣言をしているのです。
復活は単なる事実とは異なることに注目
ここには、主の復活が、歴史上の単なる出来事という事実だけではない、プラスアルファの内容が込められているように思われます。史実だけの伝承だと、単に歴史上の一事実だけで、時の流れとともに人々の記憶から追いやられ、現代における教会の誕生ということにはならなかったでしょう。何かがあるのです。他の出来事とは何かが違うのです。その「何か」に気づくことが、「宣教活動」の必要性を感じている教会共同体の活動の根拠があるように思います。
昨今注目の子どもを例に挙げてみると…
わが国内では今、人口減少に伴う少子化の問題が、改めてクローズアップされてきました。政府も「異次元の少子化対策」と銘打って、取り組もうとしているようです。
子ども関連政策の司令塔となる「子ども家庭庁」が3日、本格的に業務を開始しました。深刻化する少子化対策をはじめ、虐待や貧困、ヤングケアラーなど多様な課題に一元的に取り組み、行政の縦割り打破を図るのだそうです。岸田総理は「何より大切なのは子供たちの意見を聞き、実際に政策に反映させることだ」と述べています。(南日本新聞2023年4月4日朝刊)
現象の奥にあるものを辿ることこそが肝要
子ども自身にかかわる多くの問題は、日頃から、わたしたち大人の配慮が、子どもの個々に対してどれだけ求められていることかと思っています。十把一絡げというわけにはいかないのです。どういうことかといえば、この子とあの子の問題は、決して同じではないということです。似ていても、・・。さらに、目の前の問題を解決したとしても、それだけでは究極的な解決にはなっていないということです。同じようなことは他でもまた起こってきます。いわゆる、「模倣事案」というのでしょうか、連鎖的に違ったところで発生します。「連鎖」という言葉は、それぞれの出来事が、お互いに、何かの関連性のある原因で起きている、ということを言っているのではないでしょうか。その原因が見えてこないので、さらには、見ようとしていないのでより深刻さが増してくるのです。
「人」の問題はどれを取り上げても単純なものはないでしょう。それだけに「人」は複雑な存在であるということです。ましてや、育ち盛りの子どもにしてはなおさらです。
申し上げたいことは、子どもたちの生活現場で起こってしまう現象のその奥にあるもの、その裏にあって隠されているもの、よってもって起きてしまったもともとの要因は何でしょうか、そこにたどり着くことが求められるでしょう、ということです。外に見えるものは、その部分の現れにすぎません。
マリアは墓が空になっているサマを見た
今日は主の復活の祭日です。今日の福音は、イエスを葬ったその墓が空っぽになっているという話です。マグダラのマリアは「墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。』」と動揺した姿が見えます。
マリアも二人の弟子たちも、イエスは十字架上で亡くなって、今はもう身近にいないのに、イエスとの関係を断ち切れないのです。自分たちに繋ぎ留めておこうとします。ところが、イエスは過去の人になってしまったのです。なのに、彼らの繋ぎ止めは過去にこだわろうとする後ろ向きのものといえるのではないですか。イエスを求めて墓に行く人は、過去に戻ろうとする人なのです。それは、イエスの復活を理解できていないからです。確かに主の復活は、人間の理解を超えた出来事です。
ヨハネは五感では見えないものを「見た」
なお一層、人間の単なる五感の目には隠されているものがあります。ヨハネはそれを「見た」のです。よく見ると、ヨハネの「見た」には目的語がありません。空になった墓を見たのですが、実は、さらに彼の眼前の光景の奥に潜んだ「もの」を見て(洞察)いたのです。そして「信じた」のでした。
その「もの」とは、イエスの愛をヨハネはその時に感じたのでしょう。そして、主の「復活」を理解し、そして信じることができたのです。ヨハネ自身の力で信じることができたのではなく、イエスの愛の支えによるものでした。
その後、部屋に引きこもっていた弟子たちにも現れ、復活の意味を分からせてくださったのです。今に生きるわたしたちにも、その傍まで来て、同じことをなさっています。その洞察する「目」を持てるように願い、日々を生き抜きましょう。
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