年間第7主日(A年)の説教=マタイ5・38~48
普段は互いに尊重し合って平和を維持している
わたしたちは、言うまでもなく、その周りを多くの方に囲まれて生活しています。ということは、それだけの人々にお世話になっているということであり、同時に、自分もそれらの方々の何かの役に立っているということでもあります。互いに影響しあって成長しているからです。
要するに、お互いを理解し、尊敬し、それゆえに大切にしあうことによって、平和を構築し、秩序を保ちながら、そうあるのが当たり前であるがごとく、穏やかな日々を送っています。そうした日々を送るために、一人ひとりはそれぞれに努力をしているのです。というよりも、一人ひとりの中にある平和な、穏やかな日々を、生活を求める心が、無意識のうちに言動として表に現れているということができるでしょう。
つまりは、お互い、一人ひとりが持つ権利を理解し、尊敬し、大切にしあっていくことによって、わたしたちの日々は成り立っています。わたしたち一人ひとりが、託された仕事を通して、社会を構成しているからです。仮に、権利が無視され、傷つけられることになれば、落ち着きを失い、社会が混乱しはじめます。
その具体的な出来事として挙げられるのは、戦争であったり、日々報道されている事件事故、中でも殺人、強盗事件等、それらは国家の、人一人ひとりの権利を踏みにじる行為と言えるのではないでしょうか。
最近よく使われる「多様性」を考えてみると…
さらに最近、新たな混乱の契機になりかねないかなと感じている考え方、意見が気になっています。それは、大切な考え方であり、尊い姿勢であると思われますが、「多様性」といわれるものです。その意味するところが何なのか、気になっています。そこで「多様性」について、雨宮紫苑氏の説明を聞いてみたいと思います。
彼女は「『多様性を認める』って便利な言葉ですね。わたしは色んな生き方、考え方を認めてるつもりです。でも、なにかを批判すると『多様性を認めてない』って言われることがあります。『多様性を認める』って、いつから『だれのことも批判しちゃいけないよ! みんなで仲良しこよし!』になったんでしょう。・・・『多様性』って、そもそもどういう意味なんでしょう?
多様性(たようせい)とは、幅広く性質の異なる群が存在すること。 性質に類似性のある群が形成される点が特徴で、単純に「いろいろある」こととは異なる。 ( Wikipedia)
ただ『みんないろいろだね!』じゃなくて、共通点のある人たちが集まって群れを成して、その群れがたくさんある感じのことを指すようです。多様性を「受け入れる」じゃなくて、なんで「認める」と言うのか。それは単純で、認めるのと受け入れるのではまったく意味がちがうからです。・・・多様性を認めるっていうのは、『自分が所属するグループ以外のグループもある』って理解することであって、ナスが嫌いなのにナス好きの人を受け入れて、自分もナスを食べるということではないんです」と言われます。(「雨宮の迷走ニュース」より) 考え方、感じ方が原因となっている崩壊、分裂は、かなりきついです。
”目には目を!”は無制限の復讐を抑止するため
当然のごとく、イエスの時代にも事件等がありました。こうした行為に対して、古代中近東の世界は歯止めを施すために「目には目を、歯には歯を」という原則を作っていました。つまり、無制限の復讐に歯止めをかけるための法律だったのです。とは言っても、イエスが復讐することを許可しているというわけではありません。つまり、他人の目や歯を傷つけたら、それに相当する償いをしなければいけないという原則です。これは今日でも、基礎になっている原則ではないでしょうか。
またイエスは、実は、自分の権利を主張することだけを言っているのではありません。それぞれが、自己の権利だけを主張すれば、それこそ対立、争いになります。それは、自己のエゴイズムに結び付いてしまうからです。それだけ人間は弱く、我が儘な存在者であるということです。それによって、相手の主張が聞こえなくなり、見えなくなってしまいます。感じなくなっていくのです。挙句の果ては、相手を無視し傷つけ、自己を押し通そうとして振る舞ってしまいます。その結果、平和な穏やかな生活、秩序が壊され崩れていきます。
「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」とは…
そこでイエスは「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」と言って、悪人や罪人のことをも心配されます。罪びととは、わたしたちも自分自身を振り返ればわかります。自分勝手な望みを、さも当たり前なこととして正当化し、気ままに生きている人々のことです。自分の望みを正当化して、すり替えることを何とも思わなくなっていくところに、本当の怖さがあります。だから、罪を犯していることにも平気でいることができるのです。罪を犯そうと意識して、認めて行動する人はいないでしょう。罪を犯すことが常態化しているところに、おん父である神の心配があるのです。
悪人のことも心配するおん父の思いを生きる
父である神は、イエスの生き方に現れているように、つまり、イエスが神であることに固執しようとはせず、自らを十字架の死に渡されるようにされたのです。人間にはいろいろな権利がありますが、中でももっとも侵すべからざる権利は、自分が生きる権利ではないでしょうか。それをイエスは放棄したのです。
こうしたイエスの教え、生き方は、完全にわたしたちの日常の思い考え方を超えています。そこには、わたしたちにとっては最高の平和、安心があり、穏やかな環境があるのみです。それが「天国」なのでしょう。いろいろな人がいて、しかし、何の諍いも対立もありません。
願わくは、わたしたちもお互いの命を大事にし、キリスト者の理想となっていければいけないのでしょう。それがイエスの心だから、・・・です。
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