年間第27主日(C年)の説教=ルカ17・5~10
2022年10月2日
またしても!園児のバス内置き去り事故
園児のバス内への置き去り事件がまた起きてしまいました。9月5日、静岡県牧之原市の認定こども園で、3歳の園児が通園バスの中で意識を失っているのを職員が見つけたのです。そして、搬送先の病院で死亡が確認されたということです。
先日の26日、昨年の7月に、送迎バスの中に8時間以上も置き去りにされた5歳の男児(熱中症で死亡)の初公判が福岡地裁で開かれました。その席で、当時の園長 (45歳)と、降車補助を担当した保育士 (59歳)は、業務上過失致死罪に問われ、いずれも「間違いありません」と起訴内容を認めています。(南日本新聞2022年9月27日朝刊)
この事件を受けて、厚生労働省は、送迎時などに子どもの人数を確認するといった安全対策の見直しを徹底するよう求める通知を自治体に出しています。厚労省の通知では、登園時の人数確認をダブルチェックすることや、子どもの出欠状況などの情報を職員で共有すること等を要請しています。また、座席などを確認することも、求めています。
社会は相互依存の関係で機能しているが
そして約一年後の今回、また、同じような出来事が起きてしまったのです。牧之原市の認定こども園の事件の被害者は3歳の女児でした。バスで登園しましたが下車せずに、約5時間にわたり置き去りにされたのです。園からの帰りの時間になって、園児を送り届けようと同日午後2時過ぎに職員がバスに乗り込むと、意識を失った女児がいたのです。
わたしたちが、日常を何の心配もなく過ごせているのは、社会生活が「分業化」されているからでしょう。つまり、それぞれが置かれた場所で、託された仕事を、それこそ普通に、当たり前のごとく果たしているからです。わたしたち個人は、自分に託された仕事乃至は自ら選択した仕事を定められた場所(職場)で果たし、収入を得、日々を生きています。その働きそのものが、働きの実りが他者のためになっているのです。皆がそうした関係の中で社会を構成し、社会全体が難なく回っているのです。だから、何のトラブルもなく安心安全に生活できています。
一部が機能しなくなると全体が壊れて
その社会のあり方が壊れるとき、いや、壊される時に異常事態、非常事態に追い込まれてしまいます。車で言えば、ガス欠になったり、タイヤがパンクしたり、それぞれのパーツが機能しなくなったりするときに、車は動かなくなります。本来の役割を果たせなくなってしまうのです。それぞれのパーツがつながっているからこそ、力が連動していくのです。車本来の役割を享受できるのです。
昔の奉公人と主人の関係を参考にすると
「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」。これは今日の福音書のたとえ話の結びに出てくる言葉です。昔の日本の奉公人と主人の関係を考えると、イエス時代の主人としもべの関係が想像できるのではないでしょうか。しもべは主人の食事を準備し、給仕をしても、主人からの感謝を期待することはできないのです。「やるべきことをやっただけ」なのです。
雨宮慧神父によると、10節の「しなければならないこと」を直訳すれば、「行うべき借りがあること」となります。そして、続けます。隣人愛は神から受けた愛への応答です。わたしたち一人ひとりが隣人を懸命に愛することによって神からの愛に応えようとしても、神からの愛に応答しきることはできません。だから、隣人愛については借りが残ってしまいます、とパウロは言っています。(ローマ書13章8節)
神と人との具体的な関係が理解しやすい
一般的な言い方をしますと、しもべには、主人と同等の扱いを受ける資格はないのです。イエスの時代には、しもべはあくまでも、主人の「もの」であったのです。また、どんなに働き、仕えたとしても、主人と同じ待遇を受ける立場に立てるはずもありません。もし仮に、そんなことがゆるされるとしたら、それは主人の方からの一方的な恵みでしかないのです。いつも「借り」が残っているということになります。つまり、無限の隔たりがあるということです。
イエスは、今日のたとえ話の中で、主人としもべの関係を引き合いに出して、神と人間の関係を説明しようとされているのです。神は、主人以上の存在です。神は無限です。そして、神は絶対です。それに比べわたしたちは有限であり、もろさそのものです。神は創造主であり、わたしたちは被造物です。したがって、神とわたしたちの間には本質的な差があります。わたしたちがいくら努力を重ねたとしても、神と交わりを持てるような資格、立場を会得することなどできるわけがないのです。それができるとすれば、ひとえに神からの一方的な恵みによるものです。
謙虚に「やるべきことをやる」委託の心で
はたしてわたしたちは、この現実をどう自覚しているのでしょう。今日のたとえ話のすぐ前に出てくる「わたしたちの信仰を増してください」という弟子たちの叫びは、弟子たちが、今の自分たちの姿を自覚していたことを物語っていないでしょうか。社会的な地位や財産の有無、増減によって人を差別している弟子たち、自分たちはどんなに弱く、醜い者であり、地上の幸せだけを追い求めてしまう者なのに、神は快く近づいてくれます。
ここから、やはり自分たちには神と一つになれる存在ではないが、だからこそ、恵みの必要性があるということを痛感しているのです。
現実に戻れば、わたしたちの日常でもそれぞれにやるべきことがあります。謙虚に「やるべきことをやる」という委託の心で前進する心を増してもらいましょう。
身近に考えて、バスの運転手、添乗員が、置かれた場所での任務を、滞りなく遂行するとき、それが、事件等を防ぐ一番の有効的な対策であるといえます。
「するべきことをするだけです」
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