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復活節第5主日:今の時代だからこそ必要とされる愛、その愛の根拠はどこに?

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復活節第5主日(C年)の説教

2022年(C年)説教の年間テーマ=「弱き者を救う神」

復活節第5主日(C年)の説教=ヨハネ13・31~33a、34~35

2022年5月15日

平和を願っても、他国がそうでなければ戦争は起きる

「なぜ悲劇繰り返す」。ロシアのプーチン大統領が9日、対ドイツ戦勝記念日の演説で改めてウクライナ侵攻の正当性を主張する姿勢を見せたことに、非難や反発が相次いでいます。(南日本新聞2022年5月10日朝刊)

鹿児島大学4年の児玉菜々子さん(21歳)は、「多くの罪のない人の命を奪っている。なぜ自らの行いを正当化できるのか」「平和を願っていても、他国がそうでなければ戦争は起きる。あまりに無力でやるせない」と漏らしています。

また、太平洋戦争中の生活などを子どもたちに伝える活動を続けている、西之表市西之表の下村タミ子さん(92歳)も、「ロシアもドイツに侵略された経験があるのに悲劇を繰り返すのか。戦争で人は変わり、感情がなくなる。どんな理由でも戦争をしてはいけない」と力を込めています。

「地球全体の視点で人間のあり方を考えることが大切」

人間が生きる世の中で、「絶対」、「完璧」という言葉は、いかなることにおいても、いかなる場合でも、いかなる場所でもあり得ないことでしょう。だからこそ「備え」は大事になってきます。自然災害に対する備え、行事開催の事前の備え等、どれを取り上げても想定外の出来事が生じることがあり得ます。「完璧に」対応することはできません。

当然のことながら、人が用いる手段、もたらす結論に「絶対な安心、安全」はあり得ないということです。それでも「よりよい」手立てを考えようとします。ならば、鹿児島市岡之原町の住職鎌田厚志さん(72歳)が言われるように、「地球全体の視点で人間のあり方を考えることが大切」なのではないでしょうか。今だからこそ、現代の最も必要とされていること、それは「平和」で、「安心」して日常をおくれる、わたしたち一人ひとりの生活ではないのでしょうか。地球上の人々皆が願っている共通のテーマであると思います。他者の存在が「脅威」なのではなく、「助け・力」になっていることに気づいてもいいのではないでしょうか。

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今日の福音書で、イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われます。「互いに愛し合いなさい」というおきては、すでに旧約の時代からあるおきてです。わざわざイエスが言うまでもないことでしょう。

互いに愛し合うとき、究極は相手を「神」とみなすこと

ところで、この世に生まれ、育ち、大きくなった今の自分を見て、「自分一人でここまで大きくなったんだ」という人は誰もいないでしょう。たくさんの人、自然界の恩恵に世話になってきたのが事実だからです。だからこそ、わたしたち一人ひとりも、他者のために何かができることが大きな喜びになったり、相手の姿を見て安心したりして、人としての感性も育ってきたのです。これまた、例外なく誰もが辿ってきた歩みであり、道のりです。したがって、「隣人愛」の実践は、自ずとわたしたち一人ひとりが保有している能力、業でもあるのです。それが一人ひとりに、先ずは意識され、そして、発揮されているのかどうかでしょう。今必要とされるのは「慮る心」を呼び覚ますことではないですか。

そして、今日のイエスは言われるのです。わたしたちにとって、その「相手(他者)」になっている方が、究極的には「神」なんですよ、と。かつてイエスは言われました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5章45節~48節)と。

隣人愛の基は、天の父のわたしたち人間への愛にある、と言われます。わたしたちに愛がないというのではありません。元々あるんですが、しかしそれは、あまりにも利己的で、弱々しくて、自分勝手な欲望に満ちています。父の人々への愛は、エゴイズムを超え、相手の幸せを作り出すほどの真剣な働きかけなのです。その一番の愛の姿が、ご自分にとって一番大切な独り子・イエスをわたしたちのために与えられたことなのです。それによって、わたしたちは生かされ、新たな幸せを作り出していけるようになったのです。

「愛したように」は愛の程度ではなく、愛の根拠を示す

つまり、独り子イエスは、神であることに固執されず、わたしたちへの愛ゆえに十字架の死を受け取ってくださいました。自分の命を投げ出すほどに愛されたイエスのその愛に「新しさ」の根拠があります。父と子の心を動かし、わたしたちに幸せを与えようとする働きかけは、わたしたちへの愛の真剣さを物語っています。

一方で、自分のための利己的な幸せ、見せかけの幸せ、はかなくも消えていく幸せへの働きかけは、日常たくさん見ることはできます。また、経済的な豊かさを与えようとする愛であっても、真のしあわせを築くための力にはなってくれません。

したがって、イエスがおっしゃる「あなたがたを愛したように」という「ように」は、愛の程度を示しているのではなく、愛の根拠を表しています。したがって、イエスの愛に目を向ける時、どこを見ればいいのか。それは十字架です。それが神の愛であると知る時、互いに愛し合う力(隣人愛)が与えられ、「あなた方がわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」のでしょう。

今の時代だからこそ必要とされている愛とは・・、人間の交わりは・・、今や普遍的な視野、視点が求められているのではないですか。一人ひとりの心のうちをじっと見つめてみてはどうでしょうか。答えは自らの中にあるような気がしてなりません・・。

 

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