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年間第17主日:身の回りに起きる奇跡・しるしの中に何を見ますか

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年間第17主日(B年)説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

年間第17主日(B年)の聖書=ヨハネ6・1~15

2021年7月25日

年をとって思い通りに出来なくなっても…

わたしたち一人ひとりに託された「いのち」は、年を重ねていくにつれ、心身いつも笑顔で元気に過ごすことができるといいのですが、どうしても若い時のような元気、明るさ、ぴちぴち感は減退していきます。日々の生活の中で、自分でできることが少なくなっていくんですね。この事を、ある年齢に達した時に、そうなっているなと感じるようになりました。

とはいっても、年を重ねても自分で自分のことができるようにと心身の状態に気を使い、元気を維持するための努力を多くの人が心掛けていることだと思います。いや、実際に、たくさんの試みに挑み、できる範囲のことを、健康維持のために実践している方々は数多いことでしょう。

独り暮らしのEさん(85歳女性)もその一人です。(南日本新聞2021年7月16日朝刊) 子どもたちに迷惑をかけたくないという思いで、健康維持に気をつけてきました。毎日血圧を測り、散歩を日課とし、自分のことは自分でするように心がけてきました。

何もEさんだけでなく、多くの人が、できることならば「子どもに迷惑をかけないで」「自分のことは自分で」と思っていらっしゃるのではないでしょうか。その一方で、思うとおりに動かせない体の状態は、じわじわと現実味を帯びてくるのです。

全てを自分でしようと考えないことが大事

そこで思うことがあります。思っていることが思うとおりにできなくなることは、人によって程度の差はあっても、誰にでも起こりうる事実ではないでしょうか。そして、誰もが意気消沈していくのです。そうであっても、また、今までとは違った自分を発見し、何かを学び取ることもあります。たとえ年を重ねても、年齢にあった笑顔で過ごすための力です。それは「すべてのことを自分でやろうと思わないこと」と決心するのです。

「今まではできていたことが、一つ一つできなくなることを認めることです。それでも人は笑顔になれます。なぜならば、人は、大切にしてきた何かを手放し、委ねることができるからです」と小澤竹俊さん(めぐみ在宅クリニック院長)はおっしゃいます。つまり、今までできていたことにこだわるのではなく、できないことはできないとして信頼できる他者に任せるのです。放棄ですね。でも、「あきらめ」ではないですよ。

人間は強いようですが、その実、弱い存在です。うまくいっているときは意気揚々として、まるで敵なしといった勢いですが、いったん頓挫を来たしてしまうとどうでしょう。途端に、人間の弱さが暴露されます。でも、わたしたちは一人きりではないのです。年を重ねるにつれて、自分の隣人を増やし、また、他者の隣人になっていきます。こうして、わたしたちの社会・共同体を形成していきます。だから、信頼できる誰かに自分の大切なものを委ね、手放すことができるような隣人関係を構築しているのです。

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自分の限界を知り、認め、だから託していこうとする生き方に、人としての本来の姿があるのではないでしょうか。ここに「信仰する」意味・価値があるように思います。

満腹した人々はイエスを王にしようとした

きょうの福音書の話は、イエスが食べるもののない人々に、パンを増やして食べさせる奇跡の場面です。聖書のイエスの教えや話には耳を傾けることはあっても、奇跡だけはどうしても、と戸惑う方がおられるかもしれません。現代のわたしたちの進んだ技術や合理的な生き方を考えますと、奇跡なんてどうしても頷けないのです。だからといって、奇跡をすぐに否定していいほどに割り切ることもできません。つまり、イエスの言葉は奇跡によって裏付けられ、奇跡はイエスの言葉によって明らかにされるのですから、・・。

また、当時の人々は、イエスの奇跡をどのようにとらえていたのでしょうか。これを知ることによって、今の「わたし」の「奇跡」のとらえ方の力にできればいいのではないかと、・・。

パン増やしの奇跡は他の福音書にもあります。それによると、人々の置かれているみじめな状態に対して憐れみを感じられたイエスが、人々の腹を満たしてあげるのです。そして彼らはその空腹から救われたのです。こうした叙述で終わっています。

イエスは山に退いた…は何を意味するのか

しかし、ヨハネは違います。イエスは「ご自分では何をしようとしているのか知っておられたのである」とあります。また、ヨハネはお腹をすかした5千人の男たちにパンを与えながら、それを通して何かを伝えようとしているようです。イエスが行われた奇跡に対して、人々は反応します。そして、それに対するイエスの行動、「山に退かれた」は何を意味するのでしょう。

人々は「『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』」と言って、イエスを利用しようとしていたのです。つまり、自分たちを貧困の世界から救い出し、地上の王国つくるために。そこでイエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、「ひとりでまた山に退かれた」のです。

つまり、ローマの支配から解放してくれるリーダーにかつぎ上げようとしていたのです。パンをいただき満腹したみんなは、自分たちの日常の世界を超えることができないのです。いつまでも「朽ちる」パンを十分にいただきたいと思う気持ちに勝てないのでした。それを見たイエスは、その場を去ります。

永遠のいのち、朽ちないパンに思いを!

すなわち、イエスのなさったこの奇跡は、ご自分が永遠のいのちの、朽ちないパンであることを示していたのです。人々はその域まで思いを馳せることができなかったのでした。

結局は、自分たちの日常的な欲求を手放すことができなかったのです。本来の人としての生き方に立ち戻るために、イエスに委託できなかったのでした。

今もなお、わたしたちの周りで「奇跡」は起きています。その中に、己を手放す価値ある神からのメッセージを見抜けるか、読み取れるか、神との繋がりの「密」を切に願い、祈りましょう。

 

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