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待降節第1主日:「目を覚ましていなさい」というイエスのことばを考える

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待降節第1主日(B年)の説教

2021年(B年)説教の年間テーマ=「新しい いのちの輝き」

待降節第1主日(B年)の説教=マルコ13・33~37

2020年11月29日

きょうから、新しい教会歴が始まります。待降節に入りました。

新型コロナ 中国での確認からまもなく一年

同時に、新型コロナ感染者が中国で確認されてから、まもなく一年になります。医療の専門家によりますと、新型コロナの流行が収束するには、大勢の人に十分な免疫がつく「集団免疫」が成立するかどうかが鍵になるのだそうです。しかし、新型コロナの免疫が体内でいつまで持つのか、基本的な性質さえ解明されていません。(讀賣新聞西部本社、2020年11月21日朝刊)

今や、世界中がコロナ禍にあって、しかも長い期間、不自由と不安を強いられてきましたし、今なおその影響の真っ只中にあります。それでも、いかに生きるかを、それぞれの立場にある人が、それぞれのタレントを生かして探求し、情報の共有を大事にしているところです。

”ウィズコロナ”で様々な工夫、動きも出現

そして、“ウィズコロナ”の今、様々な工夫を凝らしたイベントもあれば、通常の行事を縮小しながらの開催と、どうにかして楽しさを、明るさを演出しようとして、関係者が動いています。

その中で、20年の歴史を刻む「『新聞』感想文コンクール」が開催されています。(南日本新聞2020年11月21日朝刊)同コンクールでは、6~8月の新聞記事を読んで感想を書くものです。今年はやはり「コロナ禍」関係が目立つようです。また、それに付随する様々な視点からの影響や問題の発見なども随所に見られたということです。

奄美の格言 水は山うかげ、人は世間うかげ

「水は山うかげ、人は世間うかげ」という格言が奄美群島にあるそうです。この格言を引用して、人と人とのつながりを大切にしてきた与論島のコミュニティに触れた稲田愛子さん(鳳凰高校2年生)の感想文がありました。「水は、山の木々のおかげで蓄えられ、木々があるのは水のおかげであるように、人も周りの人々の助けや支えがあってこそ暮らしができるものだ。感謝の気持ちを忘れずに人の役に立ちなさいという意味である」と綴っています。

感染拡大した与論島に生きる「結いの精神」

つまり、新型コロナ感染の最中、感染者確認の情報が流れるたびに、誹謗中傷や差別といった残念な情報があふれました。ところが、与論島では、感染者へのそうした扱いが大きな問題にならなかったのです。結いの精神を大切にしている奄美群島の先述の格言にある通り、人と人とのつながりを大切にしてきた与論島だったからだと稲田さんは述べています。だから、島外で治療して戻ってきた人に「おかえりなさい、元気になってよかったね」という声をかけられるコミュニティが存在できたのだろうとつないでいます。

今日のマルコ福音書は、きたるべき救い主との出会いを、目を覚まして待つようにとすすめています。

待降節第1主日:あなたがたとすべての人に言う。目を覚ましていなさい
待降節第1主日(B年)の福音=マルコ13・33~37 〔そのとき、〕イエスは弟子たちに言われた。 「気をつけて目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あながたには分からないからである。

旧約時代の人々の確信「救いの時は必ず来る」

旧約の人びとの心に、深く焼きついているのは、救いの時は必ずやってくるという確信でした。そして、それは失われることはなかったのです。いつのまにか、メシアが訪れるという確信は、人々の希望となったのです。さらにそれは、長い歴史にわたって受け継がれ、途中で、どんなに苦しい状況におかれても、なお、確かに次の世代へと伝えられていったのでした。

次の世代へ語り伝えられるとはいっても、時代がすすむにつれ、今のわたしたちが考えると、救いのメッセージを受けた当初の人々よりも、その情熱がだんだんと冷めていきそうな気がします。でも、彼らにとって、その確信は揺らぐことはありませんでした。その絶対的な根拠はどこにあるのでしょうか。

救いの時とは、神だけが知っている終末の時

福音書の「その日」「その時」とは、「救いの時」のことです。キリストを信じる者にとって、救いの時とは終末の時です。ですから、「気をつけて目を覚ましていなさい」というのは、警告の言葉ではなく、励ましの言葉です。救いがもうそこに来ているのだから目を覚ましていることはできるでしょう、覚ましていようよ、という励ましです。

そして、「救いの時」がいつになるのかを決めるのは、絶対的な権威をもつ神だけなのです。その神に対する人々の思いは、「わたしたちの父」なのです。神との親子関係にあることが、彼らの「確信」の根拠になっているといえます。「アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。 『わたしたちの贖い主』 これは永遠の昔からあなたの御名です」といわれています。(イザヤ書63章16節)

神の愛に希望をもとう!という励ましと招き

とはいえ、現実の彼らは「放蕩息子」の域を出ることができないほどの自分たちに気づいています。それでも、父である神は、自分たちを見捨てることはないという「たしかさ」を感じているのです。そのように、自分たちにかかわってくれた神(父)があったからです。そこからまた、新たな希望がわいてきたのです。

今日の福音書の話からいただくイエスからのメッセージは、かつてのイスラエルの民が体験したように、神のわたしたちへの愛のたしかさに気づき、そこから、さらなる望みをいただき、これからを生きるようにという励ましとお招きが、「目覚めなさい」という言葉に託されているのではないでしょうか。

与論島のコミュニティの確信が、「結いの精神」にあるように、わたしたちの信仰共同体(コミュニティ)の確信は、「神の愛のたしかさ」(親子関係)に目覚めることではないのでしょうか。わたしたちが「神を信じます」というとき、そこに含まれている「わたし」が抱く「たしかさ」は何でしょう? 日々の生活の中で育み、感じ取っていきたいです。

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