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年間第33主日:「わたし」をよく知ることが、遠大な奉仕へと繋っている

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年間第33主日(A年)の説教=マタイ25・14~30

2020年11月15日

人は自分が今、どのような環境に、状況の中におかれているかによって、自分の関心事が異なります。強い関心示す事柄、どうでもいいなと思ってしまう事案等、それぞれではないでしょうか。そして、自分の周りにいる人に、同意を求めたくなってしまうのもあるような気がします。だから、いろんな交わりを必要とするし、それらを通してお互いは成長していくのでしょう。

ところで、最近のテレビ、新聞等の報道内容を見ますと、幼児、児童、生徒、学生等に関するニュースが多くなっているなという印象を抱いています。みなさまはいかがでしょうか。

「ライフ・ストーリー・ワーク」とは

例えば、保育の魅力を発信し、人材不足解決につなげようとして開かれたアミュ広場でのイベント(鹿児島市)、子どもが安全に使える物作りを推進するための活動など、また、「学校校則」を考える運動等、幼児、児童、生徒にかかわる動きが、少しずつ表に出てきているのかなと感じております。しかし、問題だけを問題にしても「トカゲのしっぽ切り」と同じで、問題が解決するどころか、環境の改善には程遠くなってしまいます。

報道の中でも気になったのが、「ライフ・ストーリー・ワーク」の取り組みです。親の虐待や死亡といったさまざまな事情から施設や里親家庭などで生活し、自らの生い立ちを知らず、不安のまま暮らす子どもが、自分のルーツを知って主体的に将来に向かえるよう支援する取り組みです。この取り組みは近年、児童養護施設職員や里親らの間で、子どもの精神的な安定に必要との理解が広まってきました。事実の告知や過去の整理をしながら将来にどう向き合うか、幼少期から時間をかけて向き合い、寄り添うサポートです。

周りへの気配りができる人になるには

普及に取り組む立命館大衣笠総合研究機構の徳永祥子准教授も「子どもが自分らしい進路や人生を選択するため、自分が何者かを知ること、それを周囲が支えることが必要である」と強調なさいます。(南日本新聞2020年11月8日朝刊)

つまり、自分自身が安心して生活できていることによって、周りの人に対する気配りも効果的にできるようになるし、自らのタレントにも気づくことができるようになります。そうすれば、自分がどのように動けばいいのか、どんな手助けが「この人」にできるのかが見えてきます。とどのつまり、信仰的に受け止めるとすれば、その人が神から託された能力・タレント(恵み)にたどり着くことになりますよ、ということではないでしょうか。

託されたタレントの使い方と神の思い

今日の福音は、主人から託されたタレント硬貨を、しもべたちがどう活用するのかという話です。主人が「なぜ、大金をしもべたちに預けたのか」ということです。このたとえ話の中心は、なんといっても、三番目のしもべです。

年間第33主日:天の国は「僕たちの力に応じて財産を預け旅に出る主人」のようだ
年間第33主日(A年)の福音=マタイ25・14~30 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕 天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。

当時のラビの教えによりますと、地中に財宝やお金を埋めることは、盗賊に対する一番安全な防衛手段とされていました。ですから、このしもべは、用心深く行動し、その安全性を重要視してお金を守り通したこと、悦に入っていたのです。万全のことをしたと自負していたのです。ところが、主人の怒りを招いてしまいました。

三番目の僕は大きな勘違いをしていた

何故でしょうか。三番目のしもべの思い違いがあったのではないでしょうか。わたしたち一人ひとりがいただいている神からの能力・タレントをうまく活用すること、それが主人の望みであったのに、全く置き去りにされています。無視されています。さも、人間自らの力で、権力を用いて、何でもできると思い、自惚れてはいないでしょうか。自己判断、思いが優先され、神の思いは二の次三の次になってはいないでしょうか、・・?

イエスがどうしてこのような例えを話されたのだろうと思う時、当時の人々の、特に民の指導者階級の生き方への挑戦があったのではないかと思うのです。

能力を活用したかどうかが問われる

人は、その決定的な最後の時に、神にいただいた能力をいかに活用したのかが一人ひとり問われるとイエスは言われます。神とマンツーマンの出会いです。その時の重大さはその人にしかわかりません。というほどに、「わたし」は日々感じているでしょうか。自分の思いの中に、神の思いを閉じ込めて、覆い隠していないでしょうか。

そうだとすれば、イエスの時代の指導者層が行っていた、神の恵みを律法の中に閉じ込めてしまい、自分のみならず、民にまでも、神の恵みの道を閉ざしてしまったことと同じになります。第三のしもべが硬貨を土の中に埋めてしまい、自らの恵みの力を活用しなかったことに匹敵します。

己を知れば、他者の必要も見えてくる

また、何も、当時の指導者のみならず、今のわたしたちにも同じく向けられていると言えるでしょう。すなわち、わたしたち一人ひとりが、よくよく自らを知れば知るほどに、他者が見えるようになるということでしょう。人にやさしくなれるということでしょう。さらに、人が必要としているものがわかるようになります。そして、ついには、神が見えるようになるということでしょう。そして、神の意図していることがわかるようになるということでしょう。同時に、自らの生き方がもっと鮮明に見えてきて、お互いが「奉仕すること」に、無理なく動き出すことができるようになっていくのではないでしょうか。

そのために必要なこと、それは、繰り返します、「自らをよく知ること」です。生い立ちを知らず不安なまま暮らす子どもたちが、支援者とともに取り組んでいることです。

より効果的な、実りある、一度きりの人生を紡ぐために、・・。

 

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