年間第27主日(A年)の説教=マタイ21・33~43
2020年10月4日
わたしたちは、生活している現場のさまざまな環境に影響され、また、影響を与えながら日々を重ねています。特に、国レベルの問題になりますと、深刻な事態になってしまうことが心配です。身近なこととして今、新型コロナウイルスの問題があります。
「性暴力被害者軽視」の発言報道から
その結果、倒産する会社、職を失う人々、それぞれに、予想もしなかったことが身に起きてしまっています。それに拍車をかけるかのように、さまざまな人の無神経な発言、行動が続出します。普段ですと「また、やったか」と済ましてしまいそうなことも、新型コロナのせいで、心身がおい込められている今、いつもより、さらなる不愉快なイライラ感と絶望感を覚えてしまいます。
「性暴力被害者軽視」の発言に対し「自民、鈍い反応」、識者ら「今度こそ厳しく」と報道されています。(南日本新聞2020年9月30日朝刊)
自民党のある女性衆議院議員が25日、性暴力被害者支援を巡り「女性はいくらでも嘘をつけますから」と発言したのです。これは、政府の担当者から性暴力被害者の相談事業に関する説明を受けた際の出来事でした。それによりますと、女性議員は相談事業に警察の積極的な関与を求める中で、被害の虚偽申告があるように受け取れる発言をしたのだそうです。彼女自身はその発言を否定していますが、・・。
公人は発言の影響を事前に確認すべし
また、この女性議員は2年前にも、性的少数者のカップルについて「子どもをつくらない、つまり『生産性』がない」と月刊誌に掲載し、批判が噴出しました。その時は党が歯止めをかける動きもなく、しかし、今回は識者らから「今度こそ党として厳しく対応を」との声が出ています。
社会の中で公的地位についている人の言動は、多大な影響を社会全体に与えてしまいます。人一人に対してはもちろんのこと、社会全体の雰囲気、空気にも影響してきます。自分の発言、行動がどのような感化を与えるのか、発言する前に、動き出す前にしっかりと確認してみることですよね。完璧にできる人はいないでしょうが、少なくとも、その努力をやるに越したことはありません。そうしないと、その時の言動そのものが、相手の人を無残な状態に陥れてしまうことにもなりかねません。
今日の福音書の話では、農夫たちの残虐性が印象的です。当時のガリラヤ地方は久しく外国の支配下にありました。ガリラヤの農民たちには外国人の地主の下で、わずかな賃金に甘んじて貧しい生活でした。「外国人による統治」という事実が、彼らの生活に重くのしかかっていたのです。それで、外国人の地主に対する根強い反発があったのは事実でしょう。そこで、先祖代々の土地を取り戻そうと武器を取って立ち上がり、復讐を込めた残忍な殺しまでもが起こっていたのです。そうした現実を踏まえた「たとえ話」です。
苦しむ人々を支えることが「神の心」
そのような状況下にあったイスラエルの民に向かってイエスは、幾度となく人々の心に訴え続けてきました。生活に疲れた人々や社会の底辺で苦しんでいる人々、罪びとや遊女、社会から落ちこぼれた人々をやさしく包み込んできたのです。それが神の心であることを言葉と行いによって示してきたのです。にもかかわらず、イエスの思いと願いは、律法学士、長老、祭司長たちに受け止めてもらえませんでした。彼らは、自分たちの指導に、あまりにも自信と誇りを持っていたのです。形式的な儀式、正しさに何ら疑いを持つことなど、ありうるはずもなかったのです。
むしろ、イエスのほうこそおかしいだろうと民衆を扇動していたのです。古くから伝えられてきた秩序に対するイエスの挑戦と受け取っていました。そして、自分たち(民衆)の生活を混乱させる邪魔者としてイエスを見ていました。
指導者然とした態度は回心の妨げに!
たとえ話の農夫たちの残忍さを、イエスご自身がその生き方の中で目の当たりにしていたのです。その真っ只中にいたのです。ですから、外国人の圧政に苦しむユダヤ人の悲しさより、彼らの残忍さが気になっていたといえないでしょうか。イエスの置かれている立場からそういうたとえ話になったと言えるのです。
日常生活では、民衆の指導者としてのきれいな衣装をまとい、品行方正な生き方をしているように見えても、一枚服を脱げば、そのこころは悪意に満ちた、さらにドロドロした欲望が見えるのです。その欲のままに力づくで身分を守ろうとすれば、邪魔者を排除し、抹殺してしまう形になっていきます。
これは、現代でも同じことが言えそうです。イエスの十字架刑はまさしくこうした人間の欲望を満足させようとした結果であるといえます。今でも、わたしたちが自分の欲望のままに生きようとするたびに、「イエスを十字架にかけ続けている」ことになります。
わたしたちも、しっかりと自分の心の奥を見つめてみたいですね。表面をいくらつくろってみても、また、駆け引きで面子が保てたとしても、所詮、利己的な己の世界を脱することはできません。いつまでたっても、回心しようとしても回心する日々にはならないでしょう。
一人ひとりが生きているすべての始まりは、その命を大事にできることにあるのではないでしょうか。しかも謙虚に生きることです。権威と地位に胡坐をかくことなく、悔い改めの妨げになるものかどうかの確かめを、自分の、今置かれている立場を振り返って見つめましょう。
新たな一歩を前に進めるために・・。
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