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年間第15主日:み言葉を聞いて悟る人は百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ

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年間第15主日(A年)の聖書

年間第15主日(A年)の聖書

年間第15主日(A年)の聖書=マタイ13・1~23

2023年7月16日

13・1その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。

2すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。

3イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

4蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。

5ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。

6しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。

8ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。

9耳のある者は聞きなさい。」

10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。

11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。

12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

14イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。

15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、心で理解せず、
悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

18だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。

19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。

20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、

21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。

22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。

23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

2023年7月16日の説教

年間第15主日:かけがえのない宝を得るために⇒み言葉の前で素直に
イエスは無駄になるかもしれない相手であっても、語るのをやめなかった。それはなぜか?み言葉が豊かで強い生命力を持っているからです。わたしたちの心もイエスの言葉、福音が育つ土壌として、ますます肥沃になっていきますように!

2020年7月12日の説教

年間第15主日:諦めてはいけない!と叱咤激励するイエスの心を感じたい
「たとえ話」では種そのものの運命に焦点が当てられていますが、解釈の個所では、種をまかれた人間のがわの運命に焦点が移されています。「天の国の秘密を悟ることがゆるされていない」人たちへの宣教を、諦めてはいけないと叱咤激励するイエスの心を感じ取ることができればと思います。

2017年7月16日の説教

年間第15主日:私たちの信仰は「人の常識」を超えたところに芽生え育つ
どんなに高貴なもの、優れたものであっても、そのものの使い道、生かし方を知らないとすれば、宝の持ち腐れです。種まきの話では、種そのものは素晴らしい生命力を持っていても、まかれた場所がそれに見合う土地でなければ実らないのです。

2014年7月13日の説教

年間第15主日:イエスさまの福音が実るか無駄になるかは「わたし」次第
仮に、イエスさまのことばが、教えが無駄になったとしても、語ることを決してやめないのが、救い主・イエスさまの姿です。むしろ、止めることができないのです。

2011年7月10日の説教

年間第15主日:種は蒔かれた場所によって育ち方が大きく変わる
イエスさま時代のパレスティナでは耕さずにまず種を蒔いていたので、種自体はみな等しい生命力を持っていたはずですが、蒔かれた土地によって生育に大きな違いが出てきます。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>イザヤの預言

(イザヤ55・10~11)

〔主は言われる〕
雨も雪も、ひとたび天から降れば
むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ
種蒔く人には種を与え
食べる人には糧を与える。
そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。

第二朗読>>使徒パウロのローマの教会への手紙

(ローマ8・18~23)

〔みなさん、〕現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。
被造物だけでなく、〝霊〟の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

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この記事を書いた人
yaziro

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yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

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