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復活節第2主日:「当たり前の生活に感謝する心」を普段から養い続けよう

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

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復活節第2主日(A年)の説教=ヨハネ20・19~31

2020年4月19日

わたしたちの日常が、何も弊害なく、穏やかであることがいかに難しいことなのか、新型コロナウイルスの世界的猛威の危機の真っ只中にあって思います。

また、便利な生活に慣れてしまいますと、その中の一つでも欠ければ心身の疲れと、無気力になっていく自分を感じることが多々あります。その中の一つに、携帯電話を挙げることができます。

携帯電話の携帯を忘れると思わぬ不便が

東京への出張があったある日、ついでに、いくつかの用事を済ましてしまおうと欲張ってしまいました。それだけに、前準備もしっかりとしたつもりでした。ところが、たった一つのことを忘れたばっかりに、用事を済ますことができなくなったのです。その忘れたことというのが、携帯電話を「携帯する」ことでした。出張の本来の目的は遂行できたのですが、ついでの用事が全くできませんでした。時間の浪費に終わってしまったのです。欲張ってはいけませんね。

この時、日常、いかに携帯電話に頼り切っていたのかが、改めて認識させられた次第です。相手先の電話、その日の用件内容等、まったくもって受け身の状態です。自ら苦労して記憶にとどめようという作業をしなくなっている自分に気づかされるのです。では、その日から改めたかと言えば、「ノー」です。やはり、今でも受け身の状態が続いています。

当たり前だと思っていたことに感謝したい

ところで、2016年4月と言えば、熊本地震が発生し、震度7の大きな揺れを二度も観測した震災を忘れることはできません。特に、地元で体験をした方々にとっては、感じることがたくさんおありではないでしょうか。当時熊本に住んでいた「オセモコ」特派員の松隈結夏(まつくま ゆいか)さん(天保山中2年・鹿児島市)が、そのころの様子や今の思いを記しています。(南日本新聞2020年4月14日朝刊「南日本子ども新聞」)

「『ゴゴゴゴゴ』『ガシャンガシャン』突然の揺れに何が起こっているのか理解できず、ただ床に座り込んだ。2016年4月14日、小学4年生になったばかりのわたしは、新しい先生や友だちと出会い、とても楽しい学校生活を送っていた。その日もいつもと変わらない一日を過ごし、夕食後に父と兄とともに金魚の水替えをしていました。

突然、水槽の水が波打ち始めた。『地震だ!』と母が叫び、リビングの中央にみんなを呼び寄せた。…揺れはとても長く感じた。大きな揺れの後も余震は一晩中続いた。…二日後に本震が起こった。わたしたち家族は、父一人を熊本市に残し、福岡県大牟田市の祖父の家に避難した。…父や熊本の友人のことが心配で胸が張り裂けそうだったが、避難先のクラスメートがわたしを優しく元気づけてくれ、心が少し軽くなったのを覚えている。あれから4年たった今も、あの地震を忘れることはない。」

松隈結夏さんは続けて語ります。

「新型コロナウイルスが猛威を振るい、世界中が危機的状況に直面している今、日常生活の大切さを改めて実感している。当たり前だと思っている生活を送れることに感謝し、一日一日を過ごしたい。…みんなで力を合わせて、この危機を乗り越えていきたい」

と結んでいます。

「当たり前の生活に感謝」すること、これは、日常が「当たり前でなくなった」から感じる強い思いです。多くの方々も同じような思いを抱いているのではないでしょうか。この「感謝の心」を、異常が何もない日ごろから、大切にして生活できれば、人間関係ももっと穏やかな、安心した交わりの中で、楽しく、豊かになっていくのではないでしょうか。

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このことを語っているのが、今日の福音書の話ではないかと思います。

弟子たちは絶望と挫折感の中にあったが

自分たちの指導者、外国人(ローマ)の支配からの解放者として期待していたイエスが、十字架刑により殺されてしまったときに、弟子たちは混乱し、それ以前に、動揺し不安のどん底に追いやられてしまったのでした。そのせいもあって、イエスを擁護するどころか、むしろ、イスラエルの民衆に売り渡してしまう結果をもたらしてしまったのです。このことからくる後味の悪さ、後ろめたさは、すべての弟子にとって等しく同じような絶望感、挫折感を抱かせてしまったことでしょう。

そこに、イエスが現れ「あなたがたに平安」と呼びかけられたのです。弟子たちは、自分たちがしでかしたイエスへの裏切り行為を咎められることはなく、むしろ、イエスの温かさを感じたのではないでしょうか。それによって、弟子たちの安心感が増し、ほっとする言葉になっていたのではないかと思われます。それどころか、揺らぐことのない心の穏やかさと確信に満ちた希望を強くしていったのでしょう。

落ち込んでも「ホッとする心」を培いたい

後に訪れる「キリストの証人」としての彼らの働きぶりを見ると頷けます。わたしたちも日常、落ち込むことがあっても、落ち込んだからこそ、ご聖体訪問をし、イエスからの語り掛けの言葉に、弟子たちと同じように「ほっとする心」を培いたいです。いただきたいです。そこには、きっとひたすら前に進む力が付与されているのです。そして、「当たり前の生活に感謝する心」を、日ごろから培っていこうとするその先に現れてくる、強い希望なのでしょう。

イエスの側からすれば、人への恵み授与はごく普段のことなのです。人が、それを特別なことにしているだけなのです。

これが復活の力強さであり、弱者への神のいつくしみなのです。

 

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