待降節第4主日(A年)の福音=マタイ1・18~24
2019年12月22日
「『子どもに苦痛』は体罰」「しつけ名目許さず」。(京都新聞、2019年12月4日朝刊)
親による子どもへの体罰が来春から法律で禁止されることを受け、厚生労働省の会合で3日、体罰に関する指針素案が示されました。児童虐待防止に取り組む関係者はしつけと体罰の境界が明確になったことを評価しています。
親から子への体罰禁止法をめぐって
「体罰に頼らない子育てを目指す上で大きな一歩だ」。虐待の予防啓発や子育て支援に取り組む「ママリングス」(東京)の落合香代子代表理事は、なにが体罰にあたるのかを国が具体的に示した指針案をこう評価しています。
一方で、体罰を受ける側の子どもたちの意識を探ろうと、早稲田大大学院の「体罰調査プロジェクトチーム」が今年1月、年齢が近い18~25歳の若者3172人を対象にインターネット上で意識調査(公益財団法人日本生命財団が委託)を実施しています。
子どもの頃に体罰を受けた経験の有無や頻度、体罰に対する意識を尋ねると、1回以上体罰を受けたことがある人のうち、体罰を容認する人は68.1%~58.3%に上り、経験がない人は33.6%にとどまっています。過去に体罰を受けたことがある人は、自分が体罰を振るうことに抵抗感が少なくなるという世代間連鎖の傾向がうかがわれました。
子育てについての考えは人それぞれ
日本子ども虐待防止学会の奥山真紀子理事長は話します。「今回の指針素案では、しつけと体罰の違いが明確に示された。身体を直接傷つける行為に加え、暴言や子どもの品位を傷つける言動も避けるべきだとも記されている。虐待をなくすための第一歩として評価できる。今も『子どもは殴って育ててもいい』と考える親は少なくなく、素案に示された考え方をいかに社会に根付かせるかが課題となる」と。
このような厚労省の指針を、わたしたち一般人はどのように感じ、考えているのかなと。「子育て」に関する考え方は、人によっていろいろでしょうが、基本的には「子どもと大人はちがうということを知ること」を前提に、子育てにあたることではないでしょうかと感じています。
子育ては、心を豊かにふくらませることであって、心を傷つけることではないでしょう。また、わが子を叱る時、「悪いのはアナタよ」ときめつけるようなことがあるとすれば、それは間違ったことになってしまうことがあるのではないですか。その上、反省文まで書かせるようなことがあるとすれば、子どもをして、やる気を起こさせる手立てにはなりえません。子どもの心をねじ曲げては何にもならないのです。子どもに限らず、人は自分の存在に自信を持てないでいることが多いのではないですか。したがって、その結果として、自分の存在を自分自身で否定的に考えてしまう傾向に陥りやすくなるのです。
人の心の支え、思いの源泉はどこに?
人の究極的な心の支えは、思い考えの源泉はどこにある、・・・熟慮したいことです。
今日の福音書では、イエスの誕生が語られています。「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」。
マリアの懐妊にたじろいだヨセフだが
「聖霊によって身ごもっている」のを知らされて戸惑うヨセフの姿が描かれていますが、ヨセフはマリアの懐妊が「聖霊による」ものであることを知らなかったのです。それで、ヨセフはたじろぎます。そして、表沙汰にすることを望まなかったのでした。そう決心したのは、ヨセフが「正しい人」だったからです。旧約時代の「正しい人」たちは、神の前に畏れおののき、神の前にふさわしい存在とは思えないとして、神から遠ざかろうとします。しかし、ヨセフは祈りの裡に思い悩むのです。ここに、信仰のありがたさを覚えます。自己否定していく「自分」に向かうのではなく、「神」に向かうのです。
思い悩んだ挙句、ヨセフは「縁を切る」(婚約解消)ことを決心し、それを密かに行おうとしました。その矢先、天使がヨセフの夢の中に現れ、彼を励ますのです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」そこで、「イエス」は単なる呼び名ではなく、「神の救い」そのものであるということです。「イエス」という名は「神は救う」という意味だからです。
神の神秘を理解し天使の言葉に従った
さらに「インマヌエル」としてこの世に来られ、わたしたちの間に一緒に生きて、わたしたちの汚れを背負ってくださるのです。天使は、神の神秘・救いをヨセフに明かしてくれたのでした。ヨセフは、畏れおののく神ではなく、限りなくあわれみ深い神を理解し、受け止め、目覚めていったのでした。
こうして、長かったイスラエルの民の望みが、ヨセフが天使の言葉に従ったことにより、現実のものとなりました。その歴史的瞬間にヨセフは立ち会うのです。ヨセフにとっては、超越した聖なる神が、身近なあわれみの神となったのです。ヨセフの生き方の中心には、いつも神がいるのです。
わたしたちはどうでしょうか。神を身近に感じながらも、神をあえて遠くに置いているのではないでしょうか。自分の都合に合わせて、身の程知らずに、神を操って(?)いないでしょうか。その実、「わたし」にとっても、生きていること、考えの源泉は神なのに、・・。
今の「わたし」にとって、まもなく迎える「イエス」はどのような方なんでしょう。
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