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待降節第2主日:神に呼ばれた者としての、本来の「わたし」を、さらに求めて

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2020年(A年)説教の年間テーマ=「応えていますか、いつも」

待降節第2主日(A年)の説教=マタイ3・1~12

2019年12月8日

「一日に京町家が2軒なくなっている。単純計算すると、50年後には京都から町家がなくなってしまう危機的な状況だ」。(讀賣新聞大阪本社、2019年12月2日朝刊)

関係ないように思える京町家の話から

10月下旬、京都市下京区で開かれた京町家の保存地域指定についての住民向け説明会で、京都市の担当者が強い懸念を示しています。京町家の数は2016年度時点で4万146軒。それまでの7年間で約5600件減りました。瓦のふき替えや雨漏りの修理など、維持管理に費用がかかるほか、相続に伴って手放す例が多くあります。また、近年の市中心部の地価高騰に伴い、固定資産税も京町家が減少する要因の一つになっています。

そんな中、2018年5月に施行されたのが京町家条例です。指定された京町家を解体する場合には1年前までに届け出を義務付ける一方で、30万~250万円の補助金交付制度も、同年10月に始まりました。しかし、この制度を利用する人は少なく、この一年間で、件数としては8件です。

最近、京町家のある周辺では、京町家が続々とホテルやマンションにとって代わってきている現状があります。ある男性は言います。「町並みを残すうえで京町家の重要性はわかるが、マンションにしてしまう気持ちも理解できる」とおっしゃいます。

京町家に価値を見出している府外の民間企業が増えています。また、外国人の関心も高まってきています。彼らはその価値を認め、購入し始めています。年に4~5件のペースで改装の依頼が入ってきているといいます。店舗や宿泊施設のほか、別荘としての活用もあると、設計などを担当している古川亮太郎さんは話しています。

京都市は、少しでも京町家が減るのを食い止めようと模索している状態です。

町家があること自体が、歴史の証明に

そもそも、「京町家」とは、と言われましても、明確な定義はないんだそうです。一般には、京都市中心部の伝統的な木造家屋を指しています。京町家条例では、1950年以前に建てられた木造建築物で、「3階建て以下」「一戸建てまたは長屋」などの条件を満たすものを京町家と定めています。

京町家は、これまでの歴史を語りかけ、いくつもの史実を保持した「歴史館」のような雰囲気を感じます。その意味ではいつまでも残しておきたいものだなと思います。町家があること自体が、歴史の証明となっているような気もします。そして、「京都」という町のアイデンティティーを感じさせますよね。観光客が多い理由の大きな要因となっているのではないんでしょうか。今の時代の本来の京都の街並みをさらに求めて、・・対策が進められています。。

「場所」がその詳細を言葉で語ってくれるわけではないんですが、その名を聞いただけで、その場所にまつわる事実、出来事が、自ずと浮かびあがってくることがあります。

待降節第2主日:洗礼者ヨハネは荒れ野で宣べ伝えた。「悔い改めよ。天の国は近づいた」
待降節第2主日(A年)の福音=マタイ3・1~12 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

今日の福音書で気になるのが「荒れ野」という場所です。メシアの到来を預言し続けた旧約時代の最後の預言者として、ヨハネが荒れ野で叫び声をあげるのです。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と。

「荒れ野」という場所が意味すること

「荒れ野」は、余計なものがはぎ取られ、人間の心底が、人の心の真実が現れる場所です。その環境の中でヨハネが悔い改めを叫ぶのです。天の国が近づいているからだ、とその根拠も明示します。つまり、自分の生き方を神の導きの手に委ねる決意をしなさい、というわけです。

「悔い改めなさい」というからには、神に背を向けて生きてきた人間の姿がそこにあるということでしょう。いわゆる、神と人間との間に、ズレが生じていますよというヨハネの指摘です。その原因になっているのが罪です。そのために洗礼者ヨハネは罪の告白を伴う「洗礼」を施し、人々の生きる道を神の方へと向けさせる役目を果たすのです。

望みのないときにも、望みを抱くとは

確かに、歴代の預言者たちは繰り返し、救い主が来られることを叫び続けてきました。彼らのその叫びは人々の希望となるべきものでしたが、一度も実現したことはありませんでした。大いなる期待とは裏腹に、過酷な現実に直面することになったのです。外国勢力の侵攻、ローマ帝国の圧政、神殿崩壊等、ますます悲しみの中に追いやられたのです。それでも、彼らは絶望のどん底に落ち込んだかのようなっても、しっかりとゆるぎない希望の裡に信仰を養っていったのです。むしろ、もっと純粋にたしかな神の愛と力を見つめていったのです。「望みのないときにも、望みを抱いて」(ローマの人々への手紙4章18節)信じるようになっていきました。

要するに、人々はすべてをさらけ出すことしかできなかったのでした。すべてを失くしてしまったからです。いわゆる「荒れ野」の状態です。頼るのは神以外にあり得なかったのです。神に呼ばれた本来の自分を取り戻すために。だからこそ、ヨハネの叫びは人々に強烈に響いたのでした。さらなる神からの招きでした。

今のわたしたちの環境はどうでしょうか。ものは豊かです。生活も便利です。神に呼ばれた者として、神への「いざない」を感じていますか。「わたし」は今、どのような場所にいるのでしょう。どのような場に立っているのでしょう。その場で本来の自分を、・・今でも、いつも招かれ、そして求めている「わたし」を見出したい・・。

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