復活節第3主日(A年)の説教=ルカ24.13~35
2014年5月4日
人の人生を長いと思うか、短いと思うか、人それぞれでしょうが、確かなことは、どこにいても生かされていますし、そして、生きています。また、隣り近所の方々との交流によって、より豊かな、楽しい人生をおくっていこうとしています。
また、多くの方が「座右の銘」をお持ちであろうと思いますが、同じように、「座右の人」という方がいてもおかしくないのではないでしょうか。ある時は奥さまであったり、ご主人であったり、また、上司であったり、幼馴染の竹馬の友であったり、と、人それぞれにいらっしゃるのではないでしょうか。
そのような方がいてこそ、出会うことがあったからこそ、本当の自分に気付き、新たな道を切り開く力をいただいたということは、よく聞く話です。逆に、その方を失った時には「悲しげな」思いに駆られ、目の前が真っ暗になってしまうことも稀ではありません。生きるエネルギー源を失ってしまうのです。
今日の福音に登場する二人の弟子は、なんとも「悲しげな、暗い」表情で、エマオに向かっていました。互いに論じ合いながらも、それは無駄なことでした。そして、いつしか自分たちについてきた「見知らぬ人」にも語り始めたのです。そこには、二人の確信に満ちあふれた「主の復活」メセージはありません。語りそのものにも力なく、そのはなしを聞いても「良い救いの知らせ」にはなりえません。なぜなら、語るその人に、元気も喜びもなく、その内容にも喜びと希望を感じさせるものがないからです。
さて、今の日々のミサはどうでしょうか。ミサを捧げるわたしたち一人ひとりが喜んでいるか、希望に輝いているのか、エマオの弟子たちと同じく「悲しげで、暗い」顔をしていないか。
二人の目が遮られていたのは、「主の受難と復活」を理解していなかった結果でした。だから、このような顔、気持ちになってしまうのです。心の内はそのまま外に出てしまうものです。二人の弟子が、見知らぬ人が「イエスさま」と分かった瞬間は、「パンを裂いてくださった時」であると、ヨハネは記しています。そこにイエスさまがいるということです。その瞬間、二人は踵を返して、都、エルサレムへと引き返し、事の次第をみなに報告します。
わたしたちのミサでも、「パンを裂く」とき、イエスさまがそこにおられるのです。そしてパンをいただき、それは自分のためではなく、人のために派遣されるためです。自己満足のために拝領するのではないのです。キリスト者としての生活体験を伝えるために、宣教へと出かけます。これが派遣の祝福です。
エマオへの弟子たちの体験は、今のミサ体験の中に凝縮されているのでは。
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