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受難の主日:キーワードはゆるし続ける!尽きることのない人間への愛

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説教の2019年・年間テーマ=「召ばれています、いつも」

受難の主日/枝の主日(C年)の説教=ルカ23・1~49

2019年4月14日

増える観光客のマナー違反問題から

2020年の東京オリンピックを前に、その下見でもないでしょうが、たくさんの外国人であふれる日本の観光地が増えています。SNS等を通して、新たに有名になった観光地も増えているのではないでしょうか。タクシーの運転手さんが案内できなくて困ってしまった、という話を聞くことがあります。ピンポイントで、行ってみたい場所を指定してくるんですね。それにつれて、新たに現れてきた問題点も指摘されています。所かまわない路上座り、歩きながらの飲食、ごみの投げ捨て等、周辺住民の苦情は頂点に達しているようです。

こうした現象は、何も日本だけではなく、外国でも問題になっています。「イタリア観光住民苦情で条例続々」「マナー違反罰金」の新聞見出しが気になります。(讀賣新聞大阪本社、2019年4月8日朝刊)

イタリアの主要都市では条例制定も

フィレンツェやローマなどイタリアの主要都市で、路上での飲食など観光客らのマナー違反を罰する条例が広がっています。観光客の増加でマナー違反も目立つようになり、地元住民の生活の妨げになっていることがその背景になっているとのことです。フィレンツェでは早ければ今月内にも、市中心部の路上で、イタリアのサンドイッチのパニーニなどを食べるのを禁止する条例を施行するといいます。実は、昨年9月から今年1月の間に初めて導入され、路上で食べると500ユーロ(約6万円)の罰金が科されたそうです。

欧州では、増え続ける観光客に頭を悩ませる自治体が少なくないといわれます。スペイン東部のバルセロナ市は2017年、観光客の宿泊を目的としたマンションの固定資産税を引き上げたほか、B&B(ベッド・アンド・ブレックファスト)と呼ばれる民宿の年間貸し出し部屋数を制限したといいます。また、オランダのアムステルダム市でも、中心部にホテルや観光客向けの店を新たに開くことを原則禁止にしています。

双方の学習、他者に開く姿勢こそ必要

ただ、観光客をやり玉に挙げる自治体の取り組みには疑問の声もあります。観光・経済ジャーナリストのサルバトーレ・メッシーナ氏(65歳)は「自治体の首長は住民の不満の声に敏感になりがちだ。本当に必要なのは、観光客と住民双方に対する指導だ」と強調しています。

双方にとってよりよい姿とは何なのか、お互いが学習し合い、分かち合い、より他者に開かれた自分自身になれたらいいのでしょうが、・・。メッシーナ氏が指摘しているその指導内容が重要になってくるでしょうね。

このように「やり玉」に挙げられっぱなしで、一方的に追い詰められていった人がいます。その方はイエスです。イエスを慕ってくれる人といえば、社会的にも目立たない、ましてや地位も権力もない一般庶民の一部のみなさんでした。そして今日、イエスを追い詰めようと待ち構えている指導者階級の中に、自ら進んでわが身を置くのです。エルサレム入城です。

イエスは一方的に追い詰められたが…

今日の主日から聖週間に入ります。人々は棕櫚の枝をもってイエスを迎えますが、イエスにとっては、この日から十字架の道へとその歩みを進めていくことになります。どの福音書においても、イエスの受難についてはしっかりと語られています。今日の主日ではルカによる福音の受難物語が朗読されます。

受難の主日:父よ、わたしの霊を御手にゆだねます、と言ってイエスは息を引き取った。
受難の主日/枝の主日(C年)の聖書=ルカ23・1~49〔そのとき、〕民の長老会、祭司長たちや律法学者たちは立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そして、イエスをこう訴え始めた。

ルカは、イエスがその生涯で、指導者階級の人々に受け入れられるよりも、一方的な恨みつらみを買っていたにもかかわらず、その彼らに対して「豊かな愛の心」を示すイエスの姿を強調しています。

「父よ、彼らをおゆるし下さい…」

特に、イエスが、ご自分を十字架につける者たちのために祈ったということは、ルカだけに出てくる話です。「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」と。不正と暴力が極みに達した時も、イエスの愛に満ちたゆるしがなくなるることはないのです。悪が重なれば重なるほどに、イエスの優しさが滲みでてくるのです。「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣かなくてもよい。むしろ、自分自身のため、また自分の子どもたちのために泣きなさい」と。人間の心の醜さが深まれば深まるほど、イエスのこころの美しさが、広さが、豊かさが際立ってくるのです。

体験的に考えれば、人間として、このような苦しみの極みに立たされますと、叫びたくもなりますし、愚痴りたくもなります。しかし、この時のイエスは、完璧におん父の側に立った「神の愛の豊かさ」を証明されたのです。自らが神であることに固執しないで、しもべの姿を取られたのでした。

イエスの愛の業は私たちへのヒント

人間が持つ醜さ、不正と暴力に対して、愛をもってこたえられたイエスのこころ・業は、日々の人間関係で悩むわたしたちに、解決の鍵を与えてくれるものではないでしょうか。つまり、自分が苦境に追い詰められた時、助けられたと思える、ある方の振る舞い、言葉を体験したことがあるのではないですか。なぜそう思えたのでしょうか。そこに「鍵」があるのです。イエスのキーワードは、「ゆるし続ける」尽きることのない人間への愛でした。「ある方」の振る舞い、言葉に込められた何を、「あなた」は感じたのでしょう。

毎日、その日に気になった人とのかかわりを振り返ってみたいですね。

 

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