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年間第6主日:弱さを認めて誰かに頼る率直さの先に、神は待っている

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2019年説教の年間テーマ=「召ばれています、いつも」

年間第6主日(C年)の説教=ルカ6・17、20-26

2019年2月17日

「聞いてくれる人がいない。俺も死のうかなと思っても、『まだ来ないでいいわよ』って言っているような気がしてしょうがない。『何弱気になってんの』ってハッパかけられそうで」と話すのは、元プロ野球監督の野村克也さん(83歳)。(讀賣新聞大阪本社、2019年2月10日朝刊)

元プロ野球監督・野村克也さんの話から

妻の沙知代さんを亡くして1年余り。「女房に、先に逝かれるとは思わなんだな。元気でしたからね。闘病生活してたっていうんならね、覚悟もできるでしょうけど。5分のできごとですよ。…『大丈夫よ』って言ったのが最後ですよ」と振り返ります。

ご自分の今の生活体験の中で、「男の弱さ」を痛感しているといいます。「世の男性も、もし女房がいなかったらって想定して過ごすと感謝するんじゃないですか」と訴えています。夜、ぼーっと一人で部屋にいるなんて、なんとも言えないといいます。話し相手がいないっていうさみしさ、このような環境は、今でも多くの人が味わっている、また、味わってきたのではないでしょうか。

人はだれでも、一人では生きていけない

この野村さんの姿を拝見していて思います。彼は、自分にも他者にも、そして社会にも真摯に正直に生きてこられたのではないかと。そして、社会の中で「プロ野球」という仕事に就きながらより大きくなってきたでしょうし、その成果を今また、違った形で生かそうとしているように思います。彼は一人ではなく、いつも誰かが彼の傍にいたのです。その最適任者が妻である沙知子さんでした。

人はみな、心の奥には一人では生きていけなという思いを抱いています。そのことを意識しているかどうかに関係なく、皆の中に存在しています。話す相手がいるから言葉を覚えるし、相手がいるから野球は上手くなっていくし、食材を作ってくれる人がいるから、体も心も大きく豊かになっていきます。そして、人としての感性が育ち、広く大きな人間になっていきます。わたしたちの「人として」の育ちの裏には(見えないところには)関与してくれている誰かが常にいます。ここに、「人」が人たる所以があるのではないでしょうか。

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こうした現場に生きている人々に向かって、今日のイエスは呼びかけ、宣言します。「今泣いている人々は幸いである。あなた方は笑うようになる」と。今日の主日の福音書は、マタイによれば山上の説教ですが、ルカでは平地の説教になります。つまり、人々の中におられるイエスのイメージがわいてきます。マタイは三人称を使って説教をしますが、ルカは二人称です。すなわち、イエスの目の前にいる「あなた」に向かっているのです。

イエスが語りかける対象は「あなた」

わたしたちは人々の中にいるから助けられ、励まされて喜びをともにし、前に進むことができていますが、同時に、人々とともにいるからこそ、悩み、悲しみ、辛さもあるのです。いま飢えている、いま泣いている「あなた方」とは、現実的に社会の底辺で悩み、何かに押しつぶされそうに生きている「今のわたしたち」のことを指して呼びかけているとみることができます。すなわち、マタイは一般的な生き方を強調しているのに対し、ルカは「今」を大事にしているということです。

当時のユダヤ人の世界は、ローマ帝国の支配下にあり、侵略され、破壊され、悲しみのどん底にあった人々が多くいたのです。そうした人々を前に、彼らの姿を、心を感じ取ったイエスは、彼らに代償を求めるのでもなく、逆に心配し、無償で温かくつつみこんでいこうとするのです。それは「平地に立たれた」イエスの姿に、言動に、ルカが感じたことであったということができます。

「幸い」の根拠は神がともにいること

見逃していけないのは、虐げられ、貧しくなっている人々に、悔い改めの「しるし」を求めていないということです。それは今のわたしたちに対しても変わりはありません。ただ、神がみじめな状況下にある人々(わたしたち)のことを心配し、手を差し伸べて、救おうとされている姿に気づき、喜びなさいとおっしゃるのです。

神は逆境下の人々の側に立っている

神のなさりかたは、人の主義主張をはるかに超えたところにあります。社会の底辺に生きる人々に対して、常に希望を与え続けるのです。たとえ人々が神を無視したとしても、・・。今日の福音に何回も出てくる「さいわい」という言葉は、逆境にある人々へのイエスの叫びとも言えます。「喜びなさい」という言葉に置き換えることができるでしょうか。神がともにいるから裏切られることは絶対にないのです。だから「喜びなさい」です。

人は自分の弱さ、足りなさを知ることから、他者の存在を認め、頼ることが率直にできるようになります。この姿が「人」であり、そして「神」に向かう自分を目指していけるようになります。自分の思いが勝っている間は、・・「ひとり」のままでしょう。でも、それでいて、どこかで「誰か」を求めているのです。

 

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