主の公現(C年)の説教=マタイ2・1~12
2019年1月6日
新年を迎えると、自ずと気が引き締まる
年が改まり、新年を迎えますと、自ずと気が引き締まってやる気が出ます。何も、日本人だけでなく、人は皆、きっかけがあれば気持ちの転換、動きの展開ができます。その「きっかけ」が何で、いつなのかは人によって異なるでしょう。
2019年を迎えました。どのような動き、展開を期待し、気持ちを込めていけるでしょうか。その中で、わたしにとって考えられることの一つに「子育て」があります。と言いますのは、人口減少の中にあって、特に子どもたちの人口が気になるからです。子どもたちが減るということは、大げさな言い方をしますと、日本の危機と言えないでしょうか。つまり、我が国を背負っていく人たちがいなくなるということです。
どの親にも気になる子について考えてみる
どの親御さんにとっても、子どもたちの育ち、成長は気になります。わたし自身、子どもたちと接する時大事にしていることの一つは、子どもの目を見ることです。何の偽りのない、そのまんまのきれいな目に自分の心が洗われるようです。そして、その五感を使って、周囲の大人のしゃべること、やることをそのまま聞いて、見て吸収していきます。男女を問わず、国籍を問わず、すべての子どもたちに言えることです。
年の始まりである正月だからこそ「子ども」について、その「今」と「これから」を考えてみたいと思いつつ新聞を読んでみますと、「『ほめ写』子どもの積極性育む」という見出しに気づきました(讀賣新聞大阪本社、2019年1月3日朝刊)。
「『伸びる子は自己肯定感が高く、積極的に物事に取り組む』と感じてきた」と親野智可等(おやのちから)さん。20年以上の教師生活を通じて感じてきたことだそうです。「こうした子どもの家には写真が多く飾ってあることに気づき」、「ほめ写プロジェクト」グループ設立を呼びかけたといいます。親野さんは、子どもたちが「写真を見る度、頑張ったこと、愛されていることを感じて自己肯定感を高めていくのでしょう」と話しています。
「ほめ写」というものがあるらしい
「ほめ写」のポイントとして、①特別なシーンだけでなく何気ない普段の一コマも撮影すること②子どもの目の高さ、生活の動線上に飾る③子どもの存在そのものを認める言葉で褒める—–の3点を挙げています。また、家庭によっては写真のサイズにも工夫を凝らしているといいます。子どもたちの成長がうかがえるようなきっかけになったこと、時を逸しないように撮影することも大事になってくるのでしょうか。
特別な場を設けずに、普段の流れで
大事なことは、「特別に」場を設けないことでしょうね。普段の生活の流れの中で展開されていくことが一番です。肝心要になるのは、何といっても親子の対話であり、親子の人的交わりでしょう。「褒めること」は、文字通り子どもがやったこと、できたことへの褒美です。その前に、そのことを評価してあげること、認めてあげることが大事なのではなでしょうか。そして、それに値するなら「褒める」ことでしょう。
「褒めて育てる」とはよく聞くことですが、今まで、あまりにも「欠点さがし」が子育ての中心になっていたことへの反動のような気がしてなりません。子育ての方法論も大事ですが、もっと大事なのは「人」「親であり大人」ではないのでしょうか。子どもは「小さな」存在です。聖書で言う「小さき者」です。自己主張ができず、人生を自ら切り開いていけない人であるとも言えます。しかし、子どもはその人生で、主人公でありたいと思いつつも、本人はそこまで意識はしていませんが、そうさせてくれない現実があるのです。だから、子育ちも重労働なんです。
今日は「主の公現」の主日です。幼子イエスさまの中にまことの光、救い主の姿を見出したのは、まさに「小さき者」、三人の東方から来た異邦人の訪問者たちでした。彼らはまことの光、自分たちを満たしてくれる真の導き手を探し求めていたのでした。彼らは占い師であったといわれます。ユダヤ人たちに忌み嫌われていた人たちでした。したがって、ユダヤの社会では、その片隅に追いやられていたのです。いわば、「小さき者」の代表者、しかも、異邦人の代表者でもありました。しかし、「小さき者」は清らかです。子どもの目のように、・・。
幼子の中に真の光を見出したのは異邦人
イエスさまのその後の生活をみればわかるように、イエスさまはこうした小さき者、異邦人と称される人との付き合いを大事にしています。イエスさまの正体が、訪問者によって明らかにされたということができます。つまり、救いの仕事の第一歩が、その誕生から始まっていたのです。全人類の救いがここに開始されたといえます。いつも「小さき者」の側に立たれるイエスさまの姿です。したがって貧しくお生まれになりました。
が、しかし、親の温もりの中で豊かな人となり、多くの小さき人々に慕われ、やすらぎを与えることのできる存在者になっていきます。親や大人の「子育て」がまともであれば、「子育ち」はもっとまともになっていきます。
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