復活節第4主日(B年)の説教=ヨハネ10・11~18
2018年4月22日
前向きな言葉は人の個性を引き出す
「前向きな言葉で人の個性を引き出す姿勢を大切にするのは、自身も言葉に救われた過去があるからだ」と評されている方がいらっしゃいます。筆文字アーティスト草刈正年さん(37歳)です。(讀賣新聞大阪本社、2018年4月16日朝刊)
草刈さんは、自分は夢のない少年だったといいます。小学校の頃、仙台市から千葉県に移り住み、いじめにあいました。いつしか、みんながするから自分も、と流れに任せるようになっていったといいます。大学に進み、システムエンジニアとしての職に就きます。昼夜を問わず激務をこなし、同期200人の中で最も早くプロジェクトリーダーになります。が、無理は長く続きません。入社3年目にしてパニック症を発病。実家に引きこもり、会社を退職してしまいます。
もがいていた時に、友人が自分を信じて、かけてくれた言葉に心が軽くなったのです。「お前ならやれる。大丈夫!」と。
もがいていた時、友人の言葉で奮起!
自分も人を応援する人になりたい。自分の個性を生かして、と思うようになり、外出に怖さを感じ、呼吸が困難になる症状を克服するため、目標を立てました。世界一周旅行です。その旅の途中で、路上で手品をして日銭を稼ぎながら10年間旅を続けている方に出会いました。その方曰く「ゼロが大切。ゼロだからイチを作っていける」と。草刈さんにとっては、天井を突き破ってくれる言葉だったということです。
ゼロからの出発で「新境地」開拓へ
半年間の旅を終えて帰国し、「個性筆文字」をかかげ、路上詩人として首都圏の繁華街に通ったそうです。「手本なし、見本なし、書道経験なし。あるのは個性」を背景にして、即興で詩を書き、様々な太さの線や形、余白の使い方といった技術、感性を磨き、人とのつながりを取り戻す活動の必要を感じていったといいます。そして、筆文字にとどまらず様々な分野で、人と人とをつなぐ仕事をしていくという決意のもと、新たに動き始めました。迷いそうな時は「とはの問い」を自身に投げかけるそうです。「あなたにとって筆文字とは?自分がしたいこととは?」。そしていつものように付け加えるそうです。「答えは自分の中にある」と。
時にはむなしく感じる言葉もあるが
時として言葉をむなしく感じることがあります。わたしが司祭叙階の恵みをいただいた当初は特にそれを感じました。会議の席で交わす言葉のやり取りに、ほとほと疲れてしまいました。もっと単純に言葉を使ってくれればいいのに、やたら遠回しに修飾語、修飾節を加えて語るものですから、せっかくの発言がややこしく、複雑に聞こえてしまいます。
その一方で、「ことば」から元気をいただくことも多々あります。草刈さんのように、ある人が発した言葉に強く共鳴し、それまでとは違ったエネルギーを感じて、自己発見に至ることがあります。「共鳴する」ということは、その言葉、表現の意味する内容が、より豊かになって、生き生きと受け止められ、その人の中で膨らむのです。響き合って別の新たな音色を奏でてくれます。
イエスの言葉は無駄なくストレート
「わたしは羊飼いである」という今日の福音のはじめの言葉も、文字通りの意味だけでなく、羊飼いと羊との関係までもが含まれている表現といえます。下手な修飾語、修飾節など不要です。
現代社会で、ペットを飼っている人々が、自分の愛情を注ぐように、パレスティナの羊飼いたちは、羊をほんとうに大切にしていました。一匹一匹に名前を付けていたようです。羊飼いの愛情をたっぷりと羊たちに注いでいました。羊飼いと羊は起居を共にし、みなが家族のような毎日を過ごすのが普通で、「善い羊飼い」という言葉は、それらすべてを表しているものでした。
善い羊飼いは利益ではなく、愛情で動く
しかし、いつも羊の持ち主である羊飼いが、羊を牧するとは限りませんでした。羊が自分のものではない雇人が担当することもあります。もちろん賃金をいただいて雇われます。彼らはあくまでもお金で雇われた雇人で、羊飼いとは違って羊に対する心の持ちようが、善い羊飼いとは、かなりの隔たりがあります。「狼が来るのを見ると」羊を置き去りにして逃げ去るのです。行動の原点が両者では大きな違いがあります。「善い羊飼い」は羊への「愛情」で動きます。雇人は自分の「利益」になるか否かで行動します。こうした現象は現代でも同じことが言えそうです。
イエスは一人一人を名指しで招いている
「善い牧者」の生き方は、イエスさまの人類に対する愛の確かさを示すものといえます。つまり、わたしたちをいつも大切にしてくださるということです。決して見放すことはなさいません。一人ひとりを名指しで招かれます。わたしたちがイエスさまを見放さない限り。十字架上の死を拒むことなく、わたしたちのために受けてくださいました。裏切りがあるとすれば、それは神からではなくわたしたち人間からでしょう。日常の中で、イエスさまの愛を感じ、他者と分かち合いましょう。
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