年間第14主日(A年)の説教=マタイ11・25~30
2017年7月9日
現代人は忙しすぎてほほえみを忘れているのでは?
「わたしたちは忙しすぎます。ほほえみを交わすひまさえありません。ほほえみ、ふれあいを忘れた人がいます。これはとても大きな貧困です」(「マザー・テレサ愛のことば」より、女子パウロ会)
わたしたち人間にとって、何が貧しいのか、何が幸せなのか、立ち止まって真剣に考え、思い巡らすことってあまりないのではないでしょうか。特に若く、元気な時はひたすら前に進むことのみを目指します。当然のことながら、人生の時期に合った成長期が誰にでも備わっています。それが「若さ」というものであり「老練」というものでしょう。
人はパンではなく、小さなほほえみに飢えている!
マザーテレサはさらに言います。「人は一切れのパンではなく 愛に、小さなほほえみに飢えているのです」と。
渡辺和子シスターは「ほほえみ」について著しています。
「ほほえみは、お金を払う必要のない安いものだが、
相手にとっては非常な価値をもつものだ。
ほほえまれたものを、豊かにしながらも、ほほえんだ人は何も失わない
フラッシュのように、瞬間的に消えるが、記憶には永久に留まる
どんなにお金があっても、ほほえみなしには貧しく、
いかに貧しくても、ほほえみの功徳によって富んでいる
家庭には平安を生み出し、社会では善意を増し
二人の友の間では、友情の合言葉となる
若しあなたが、誰かに期待したほほえみを 得られなかったら、
不愉快になる代わりに あなたの方からほほえみかけてごらんなさい
実際、ほほえみを忘れた人ほど それを必要としているものはないのだから」
(「面倒だから、しよう」幻冬舎)
わたしたちが生活している社会現場には、たくさんの職種があります。とはいっても、基本的には、「親」としての仕事内容が、一般に働いているときの根底にあるのかなと思います。つまり、子育て時の親御さんの心境です。身を粉にしてわが子に対して接します。その親の姿を見て、子どもは安心してその身を任せ、それこそ、すくすくと育っていきます。
「親が子に接するような態度」が信頼の絆を育てる
同じように、幼稚園、保育所の先生方、病院の医師、看護師の方々、さらには、各種の養護施設、高齢者施設等で働かれる方々、その他、人の世話を背負っていらっしゃる方々が、自分とかかわる人たちに向けて、やはり、安心とやすらぎを提供なさっておられると思います。そして、そこには強い信頼の絆が育っていくのではないでしょうか。この絆が、世話を受ける方々に元気を取り戻す力となっていきます。
イエスさまのように「労苦する者、重荷を負う者は、みなわたしのもとにくるがよい。わたしはあなたたちを休ませよう。わたしは心の柔和、けんそんなものであるから」と、おっしゃることはないでしょうが、表現は違っていても、心はそのようなことではないでしょうか。イエスさまのように、無制限に、無差別にというわけにはいかないとしても、限られた範囲の中で、精一杯の対応を試みます。そうです、できる限りの「精一杯の」かかわりなのです。イエスさまのように完璧ではありませんが、・・。
人には利己的な傾きから解放されない限界がある
わたしたちには、どんなにすばらしい奉仕にたずさわっていても、利己的な傾きから解放されたとはいえません。どうしても自分を大切に思ってしまいます。確かに、愛する人が現れたとき、相手を喜ばせようと夢中になります。労苦を厭いません。しかし、どうしても、「わたし」の限界がついてまわります。自分の気持ちにばらつきがあると、その場から逃げたり、疲れたりしていると感情が先走ってしまいます。最終的には、わたしたちは他者の労苦、重荷に対して無力であると言わざるを得ません。イエスさまのように「わたしのもとにいらっしゃい」なんて、言うことはできないのです。
利己心のないイエスから力をいただく必要がある
結局のところ、イエスさまには「エゴイズム(利己心)」がないということです。このイエスさまの人となりは、現代のわたしたちにも絶えず影響しています。だって、「わたしは代の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28章20節)とおっしゃってくださいました。同じイエスさまから、力をいただくことができます。ここに「信仰する」原点があります。
イエスさまは、いつも「安心しなさい」とほほえんで、招いてくださいます。
コメント