聖霊降臨(A年)の説教=ヨハネ20・19~23
2017年6月4日
報道によると、「隠れ待機児童」が67,000人に上る
「待機児童解消遠く」。新聞のトップ紙面に大きい活字で目に入ります。さらに、あまり見慣れない表現にも気づかされました。「隠れ待機児童」という言い方です。それは、自治体が認可する保育施設に申し込んで入れなかった0~5歳児のうち、待機児童に含まれない児童のことを意味しています。
具体的には、保護者が育児休業中、保護者が求職活動を休止、自治体が独自に助成する保育施設を利用、特定の保育所のみを希望、・・・があります。昨春時点で、全国の待機児童が約23,000人だったのに対し、隠れ待機児童は約67,000人に上っていたといいます。(讀賣新聞大阪本社、2017年5月29日朝刊)
生きる、生活するために大切なもの、ことはたくさんあります。だからこそ、わたしたちは悩みます。だからこそ、必死になります。だからこそ、優先順位をつけて選択していきます。できることならば、安心して、平和に暮らせることができればいいと思って前に進みます。特に、年を重ねていきますと、若いころと違って物事に対する「挑戦力」が低下していきます。一方で、その年齢と環境にあった過ごし方、感性が、しっかりと育っていくものです。
働きたい女性は増え、企業も女性活用に積極的
働き方改革が云々されている現代、自治体の想定以上に、働きたい女性が増えてきているといいます。これに呼応して、企業側も女性を積極的に活用しようとしています。中には、企業自体が保育施設を設け、働きたい人を呼び込む体制を構築しようとする動きもみられるとか。
こうなりますと、どうなんでしょうか。その人が置かれた立場によって判断が異なるかと思いますが、そもそも、働きが主で、教育が従になるのでしょうか。教育が主で、働が従でしょうか。いや、両方とも主ですよ、と言いたいですが、・・。いずれにしても、お互いが安心し、安全な状態で仕事にも、子育てにも集中できることが何よりです。そこで、何が求められているのか、どの立ち位置でそれを見つめる必要があるのか、いつも注視したいことです。
仕事と子育てを両立させるために必要なことは
そのために、もっとも身近で、確実なことは、自分自身についてよく知っていることではないでしょうか。今、何を必要としているのか、どのような心身の状態なのか、将来に向けての自分を、今どうしたいのか、それで家族はどうなるのか、じっくりと立ち止まって考えてみたいです。
イエスさまの弟子たちは、ごく平凡な日々を過ごしてきた普通の人たちでした。生きるために日々の糧を得ようと、必死に漁に出ていたのです。その一方で、自分たちの解放を祈り続けてきた日々でもありました。
いつもの通り生活していたある日、一人また一人と、イエスさまから声を掛けられました。「わたしについて来なさい。あなたがたを人を漁る漁師にしよう」(マタイ4章19節)と。それからというもの、イエスさまと寝食を共にし、「人を漁る漁師」になるべく目指します。でも、思うとおりになかなかいきません。師であるイエスさまに目をかけていただきながらも、躓いて倒れたり、わき道にそれてしまったりと、その道のりはいつも平坦ではありませんでした。誰がいちばん偉いのかと互いに競い合う、自分のことしか考えられない自分たちでもあったのです。
弟子たちは当初、弱くて恐れに満ちた集団だった
ダメさ加減の頂点は、イエスさまの受難の時です。散り散りに逃げ去り、イエスさまを拒み、否定してしまうほどだったのです。それは、ユダヤ人を恐れての言動でした。その結果、イエスさま亡きあとは、一同は一つの場所に集まって、ユダヤ人の恐れから逃げていたのです。この世への恐れに満ちた集まりでした。自分たちの弱さ、醜さに押しつぶされている弟子たちの心に、聖霊は働きかけます。弟子たちは何もない自分たちを神の前にさらけだすしか道はありませんでした。「無」の状態であったからこそ聖霊は働き始めます。そして彼らの躍動が、同時に、始まるのです。これが教会の始まりとなったのです。
聖霊降臨を契機に弟子たちは一変した。私たちも!
聖霊降臨を契機に、弟子たちは一変します。わたしたちの日常で、変わった(成長した)自分を発見する時、明らかに聖霊の働きがあったしるしです。神に、生きることに冷えきった自分の心を温め、バラバラな世界にゆるしと平和を築き上げていく一人ひとりになっていけます。一人ひとりが心底、そうなることを願い、求めていけば、弟子たちがそうであったように、・・・なれます。
今の時代に、「従」ではなく、「主」となるものは一体何なのでしょう。
聖霊来たり給え、主よ、聖霊を遣わしたまえ、地の面は新たにならん!
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