待降節第3主日(A年)の説教=マタイ11・2~11

2016年12月11日

2017年説教の年間テーマ「神のふところ」
神のふところは限りなく大きい

 「わたし」の喜びは主観的なとらえ

どの国においても、いつの時代でも、わが子の誕生を誰よりも喜び、よき成長を願わない親はいないと思います。とは言いましても、「喜ぶ」ことって生涯の中でどれだけあるでしょうか。

具体的に数える人はいないでしょうが、しかし、思いとして出てくることといえば、悲しいこと、辛いことの方が圧倒的に多いような気がします。喜びに満ちた人生を送るよりも、悲しみにおおわれた人生を歩む人の方がはるかに多いような気がしてなりません。いかがでしょう。

さて、「喜び」という場合、どちらかといえば主観的な観点からの捉え方が多いのではないかと思いますがどうでしょう。わたしたちが求めるものが手に入ったときには充足感があり、嬉しくなります。自ずと顔がほころんでまいります。顔の筋肉がゆるんでくるんですね。ごく自然な姿です。他人がそのことに別に関心を示さなくても、自分にとっては大きなことです。

この世の喜び、幸せは束の間です

ところが、仕事のこと、住まいのこと、自然界の出来事等、自分の周囲で起こる動きや変化が、無残にもその喜びを切り崩していきます。「喜び」を得るためには、それなりの努力と時間を要しますが、一瞬のうちに落ちこぼれていくのも「喜び」です。

自分の思い通りにならない日々の歩み、こうした人生を積み重ねていくうちに無力感を抱いてしまうこともないとは言えません。

そして、「喜び」から遠ざかっていきます。たとい喜びがあったとしても、無条件に喜びに浸ることができなくなります。

このように、この世における喜び、幸せは束の間に過ぎないものであることが、わたしたちの中に、生き方の体験を通して自然と刷り込まれているのではないでしょうか。

待降節第3主日は「よろこびの主日」

今日の主日は、「よろこびの主日」と呼ばれてきました。小さい頃の記憶の中にあるのは、この主日に司祭は「バラ色の祭服」を着用していたということです。パウロが叫んでいる「主にあってよろこべ、かさねていう、よろこべ」との招きでミサが始まるからでしょう。

わたしたちが生きている現実は、苦しみと悲しみ、辛さとさびしさが入り混じった、人間としてはどうしようもなく、ぎりぎりのところで生きているといっても過言ではないような気がします。そこに、人間のもろさを超えて神が救いの手を差し伸べてくださるのです。だから、そのことを感じ取ることができるようにとの招きです。

そのためには、この世における充足感、喜びは絶対的な支えではないことを知り、もろ手を挙げてパウロの招きに賛同できているかが肝心です。洗礼者ヨハネは、イエスさまのもとに来てその病をいやされて喜んで帰路につく人々を見て、「来るべき方」としてのイエスさまを確認します。

神の訪れこそ究極の喜び

イエスさまとともにいることは、そのような人びとにとって癒しであり、幸せであり、安心です。その人々は、自分が満たされていない者であり、自分の弱さを知り尽くしている人々です。だから、イエスさまのもとへ集まるのです。

心身の病を抱えた人は、病院が嫌いであっても、いざとなれば医者の診察を受けに行きます。その時は、身も心も医者に任せきっているその人の姿があります。元気になりたいという希望と健康への関心が高まっています。その先に「喜び」が待っています。

主の訪れ(キリスト誕生)は、何事にも代えがたい究極の「喜び」です。「主にあってよろこべ」とは、その喜びは絶えることがないからパウロは叫び続けるのです。神の訪れをまことの喜びにできていますか。共に、そう叫び続けられるようでありたいですね。