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年間第32主日:貧しいやもめは、賽銭箱にだれよりもたくさん入れた

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年間第32主日(B年)の聖書

年間第32主日(B年)の聖書

年間第32主日(B年)の聖書=マルコ12・38~44

2024年11月10日

〔そのとき、〕12・38イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、

39会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

40また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

41イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

42ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

43イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

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2024年11月10日の説教

年間第32主日:環境の変化の真ん中に、神のみ心を見る人、見ない人とは
「やもめ」も「いじめられている人」も、自らの人生の表にすら立つことができない人たちです。立ちたくてもそうさせてもらえない、なんとも歯がゆい歩みを強いられています。それは、人間の視点に立った時はそうですが、神の視点に立つと違うよ、ということを今日の福音はわたしたちに勧めています。

2021年11月7日の説教

年間第32主日:主よ!どうすれば良いのですか?日々、導いてください
イエスのような人は、他者を見る心も、外見もさることながら、もっと内面に注目します。イエスは、みすぼらしいやもめの心を、さい銭の乏しい額に見るのです。乏しい額でも、やもめがすべてを神に捧げているその心を読みとるのです。

2018年11月11日の説教

年間第32主日:真の権威は、各々の日々の生き方の中で培われていく
献金はいいことですが、何も自慢することでもないでしょう、とイエスさまはおっしゃりたいのでしょうか。少なくとも、献金の度に、新たな動機づけをもって捧げたいですね。自分にとって、より有意義なミサ、祈りとなりますように・・・。

2015年11月8日の説教

年間第32主日:やもめの献金は、神への全き委託の生き方を感じさせる
律法による権威づけはこのやもめにはありませんが、一生懸命神への道を歩んできたという事実の積み重ねが、すでに「権威」です。人から信頼と安心を勝ち取ることができます。

2012年11月11日の説教

年間第32主日:「やもめの献金」は生活費を全部入れた
このやもめがだれよりもたくさんの献金を入れたと、イエスさまは弟子たちに断言なさいます。「この人は、乏しい中から自分のもっているものをすべて、生活費を全部入れたからである」

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>列王記

(列王記上17・10-16)

その日、預言者エリヤは立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。
主が地の面に雨を降らせる日まで
壺の粉は尽きることなく
瓶の油はなくならない。」

やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。

第二朗読>>使徒パウロのヘブライ人への手紙

(ヘブライ9・24-28)

キリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったのです。また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。

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yaziro

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yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

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