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主の昇天:全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい

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主の昇天(B年)の聖書

主の昇天(B年)の聖書

主の昇天(B年)の聖書=マルコ16・15~20

2024年5月12日

〔そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、言われた。〕
16・15「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。

17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。

18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

20一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 聖書本文は 日本聖書協会の「新共同訳聖書」から引用しています。
日曜日の聖書は、日曜日の説教とともに毎週木曜日の夕方に更新されます。
カトリック教会では日曜日のことを主日(しゅじつ)と言います。

日曜日の説教もどうぞ!
日曜日(主日)の聖書に続いて、YASUさんの説教(メッセージ)はいかがでしょうか!
YASUさんはカトリックの神父さんです。

2024年5月12日の説教

主の昇天:世界の嘆き、自分の隣の人の苦しみ・叫びに敏感でありたい
教会は地球上のすべての被造物に対する責任があります。福音を宣べ伝えることは、一人間の信念やイデオロギーを伝えることではありません。イエスを伝えること、それだけです。そのためにも、世界の嘆きと苦しみの叫びをききとれる感性を豊かにしたいものです。

2021年5月16日の説教

主の昇天:わたしたちの言葉、行いは空虚ではない。真実なものである
イエスのよき仲介者となるために、日々、精一杯生きたいものです。イエスは「信じる者には次のようなしるしが伴う」と言って、わたしたちの言葉、行いが空虚なものではなく真実なものであることを保証してくださっています。

2018年5月13日の説教

主の昇天:イエスの救いの業の継承は弟子たちへ、そして、今の私たちへ
福音宣教することは、自分の人間的な信念やイデオロギーを伝え、広めることではない。あくまでも、イエスさまを伝えることであり、イエスさまに人々を出会わせることにあります。世界の人々は、嘆きの叫びをあげて救いの訪れ、福音を待っているのです。

2015年5月17日の説教

主の昇天は、イエスさまから「聖霊」へのバトンタッチが実現した日です
イエスさまは弟子たちの不信仰をお咎めになりながらも、「全世界に行き、すべての者に福音を宣べ伝えなさい」とお命じになります。不利な条件、不都合なことがあっても、「前を向きなさい」と励まされるのです。

第一朗読と第二朗読を下の方に掲載しましたので、続けてお読みくだされば嬉しいです。実は、カトリック教会の主日(日曜日のこと)のミサでは第一朗読、第二朗読に続いて、三番目に上記の聖書(福音書)が朗読されます。

【注】第一朗読は復活節を除き、旧約聖書が朗読されます。因みに、復活節は新約聖書の使徒言行録が朗読されます。また、第二朗読では、新約聖書の中の使徒書と呼ばれる聖書が朗読されます。

第一朗読>>使徒たちの宣教

(使徒言行録1・1-11)

テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

第二朗読>>使徒パウロのエフェソの教会への手紙

(エフェソ4・1-13)

皆さん、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。

そこで、「高い所に昇るとき、捕らわれ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に降りておられたのではないでしょうか。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです

そして、キリストはある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。

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yaziroの名は、1549年聖フランシスコ・ザビエルを鹿児島に案内してきた薩摩の人・ヤジローにあやかっています。

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