
【2026】説教の年間テーマ=神は罪びとに道を示される
待降節第2主日(A年)の説教=マタイ3・1~12
2025年12月7日
わたしたち人間の対応力、洞察力を超えたところで起きる出来事に対して、わたしたちには成す術がありません。最近、地球上のあちらこちらで起きる出来事、先日は東南アジアの広い範囲にわたり、サイクロンが大暴れをして甚大な被害が続出しました。
特にインドネシアのスマトラ島では、豪雨により孤立状態になっている地域があるということです。報道によると、
また、他社の報道では、
大災害の発端は、「これ」一つだけ、というわけではないでしょう。いくつかの条件が折り重なってその結果を膨大なものにしてしまったということではないでしょうか。それぞれが、お互いを刺激し合って、予想もできないほどの大きさになってしまったのです。物事が起きるときって、大体そのようですよね。その結果が大きければ大きいだけ、折り重なる要件はその数も量も多くなります。
きょうの福音に目を移しますと、洗礼者ヨハネが荒れ野で声をあげます。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と、宣教を始めました。このヨハネの言葉は、イエスが宣教を開始する際の言葉と同じです。(マタイ4章17節)

そして、ヨハネはメシアの到来を告げる旧約時代の最後の預言者であったのです。その旧約時の歴代の預言者は、メシアの到来を次の者に引継ぎ、その最後を担ったのがヨハネとなりました。ヨハネは「荒れ野で」宣教の第一声をあげたのです。その「荒れ野」は、日本にいては体験ができませんが、いわゆる、余計なものがはぎとられ、人の心の真実があらわれる場所です。そして、「悔い改めなさい」と呼びかけたのです。天の国が近づいたからなのです。
また、当時の人々は、メシア到来の先駆けて預言者エリアが遣わされると考え、そう信じていました。「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物」としていたヨハネの姿は、預言者エリアを彷彿とさせるものでした。
「アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、「エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ」と命じた。一方、主の御使いはティシュベ人エリヤにこう告げた。「立て、上って行ってサマリアの王の使者に会って言え。『あなたたちはエクロンの神バアル・ゼブブに尋ねようとして出かけているが、イスラエルには神がいないとでも言うのか。・・・アハズヤは、「お前たちに会いに上って来て、そのようなことを告げたのはどんな男か」と彼らに尋ねた。「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と彼らが答えると、アハズヤは、「それはティシュベ人エリヤだ」と言った。それゆえ主はこう言われる。あなたは上った寝台から降りることはない。あなたは必ず死ぬ。』」エリヤは出て行った。」(Ⅱ列王記1の1∼8)
だから人々は彼のもとに次から次へと集まってきます。ヨハネは集ってきた彼らに、回心の具体的な表明として、罪を告白させ、洗礼を授けます。罪とは、言うまでもなく、神に背を向けて生きてきた人間と神とのあいだに生じた「ずれ」です。ヨハネはこの「ずれ」をなくすために罪の告白を伴う洗礼を施し、人々の行く道を神へと真っ直ぐに向けさせるのです。特に選民意識の強いファリサイ派の人々、サドカイ派の人々には厳しく当たります。「蝮の子ら」と呼び、彼らの宗教的な生き方を装った姿を戒め、「悔い改めにふさわしい実」を結ぶように要求します。その実とは、自分を神の支配に委ねたことを態度で見せること、つまり、「洗礼」を意味しています。
ヨハネの洗礼は、水によるものですが、後に来られるメシアのそれは、「聖霊と火」による洗礼です。ヨハネの洗礼は、それに備えるためのものです。
人間の世界では、備えが完璧、十分であるということはないでしょうが、神の前では、神ご自身が十分に備えてくださいます。身を任せることの重要さ、そして、ありがたさを分かればこの上ないですね。
つまり、「望みのないとき、ところにも一すじの希望が・・・。」


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