
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第30主日(C年)の説教=ルカ18・9~14
2025年10月26日
わたしたち人間は、顔、姿がそれぞれに違うように、感じ方、考え方、振る舞い等、それぞれに癖というか、個性というか、各自がその人らしいものを持ち合わせています。だからこそ、生きることに魅力を感じるし、さまざまな面白い、珍しい体験を重ね、一人ひとりが生きることに、さまざまな色合いをつけてくれます。そして、お互いの人間性がより豊かに高められ、その上に、世の人々の力になったり、癒しの存在になったり、みなを束ねて一つの目標を目指すリーダー的な存在となったりで、さまざまな分野で多くの方のために役に立つ充実した働きができるようになります。実に人は、他者のために存在しているのですから、・・。
とはいっても、中にはそれと真反対のことを考え、行動する人々がいるのも現実です。つまり、一般に言う、「人の足を引っ張る人」です。一つのことをまとめようとすると、その作業に対して、反対のことを言ったり、行動したりしてそれを妨げる人です。また、そうすることを人に、人の前で大いに自慢したりする人もよくいたりしますよね。それが自分の存在価値なんだと言わんばっかりに、・・。そのような光景を目にすると、なんとなく、その人がかわいそうに思えてきたりします。
また、それとはちょっと違ってはいるんですが、人前で、自分がやったことを自慢し、大いに言い広めたりして「自己アピール」する人もいます。そのような人を見ると、なんだか逆に不快感を抱いてしまいますね。みなさんはいかがでしょうか。

きょうのイエスのたとえ話は、二人の男が祈るために神殿に上ったという言葉で始まっています。一人はファリサイ派の男で、もう一人は徴税人です。このふたりは対照的な祈りを捧げています。
ファリサイ派の男は、司祭長たちがよくするように、誰からも見られ、注目されるように祭壇の方へと進んでいきます。他方、徴税人はといえば、神殿のずうっと後ろの方で、隠れるようにひざまずいて祈っています。ところがイエスは、話しのむすびで「 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と言っておられます。
ふたりの祈りは何がどう違って結果がそんなに分かれたのでしょうか。
誰もが読んで気になる内容に気づかれるのではないでしょうか。ファリサイ派の男の祈りです。「『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」と。
確かに彼の生活は非の打ちどころのない立派なものです。宗教的にも倫理的にも模範生でしょう。でも、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して、イエスはたとえを話された、と言われているのが気になります。というのは、ここで「うぬぼれ」という句を直訳すると、「自分自身を頼りにする」という意味になるようです。それが「うぬぼれ」と訳されたのは、悪い意味合いが込められていると見たからでしょう。
イエスがファリサイ派の人を非難しているのは「自分を優れているとうぬぼれた」ことではなく、「神に頼らずに自分自身に頼った」ことにあるのです。この人が「週に二度断食し、全収入の十分の一を献げた」のは、自分の弱さを努力によって克服しようとしたからです。それに成功したとき、無力なものを引き合いに出して、胸を張ったのです。
彼は熱心なユダヤ教徒であり、自分に忠実であろうとした人でしょう。彼の正しさは救いのために十分すぎるほどだったでしょう。自分は「正しい者」だと自信を持つのも当然だといえます。でも、彼が捧げた感謝の祈りは、自分自身に対する信頼であり「自分を高くする」生き方です。そのような生き方は神の前では義とされません。
これに対して徴税人は自分の弱さを神のあわれみに出会うための入り口にしました。彼は自分の無力さを知っているので、自分に頼らずに、憐れむ神に信頼を置きました。彼は自分の弱さを悲しみます。彼は「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と。徴税人は自分の罪深さを悲しんで神の「情け」を乞い求めました。
人間は確かに弱い存在です。きょうの福音に登場する二人はその「弱さ」に対する対処のありかたに大きな違いがありました。ファリサイ派の人はそれを自らの努力によって克服しようとしました。自分の努力に頼ってしまったのです。そのような人の言葉には、現代でもそうですが、いやらしさを感じませんか。一方で徴税人は「罪人のわたしをあ憐れんでください」と述べて、神のあわれみに出会うための、いわば、大きな力としたのです。
義人ではなく、罪びとを招くために来られた方は、徴税人こそ神の前に正しい人だと教えられたのです。
神が義とする人は「自分を便りにする人」ではなく、「神を頼りにする人」なのです。


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