
説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第20主日(C年)の説教=ルカ12・49~53
2025年8月17日
世の中には、つい愚痴って、嘆きたくなる出来事がたくさんあります。そうできたとしても事が解決するはずもないんですが、・・・でも、いつまでも忘れられない出来事になってしまうことがあります。
「8月12日」は歴史上、それこそ忘れられない出来事が二件、この日に起きてしまいました。一つは、47年前の1978年(昭和53年)に鹿児島県の吹上浜で起きた拉致事件、今一つは、40年前の1985年に起きた日航機墜落事故です。
「1985年8月12日、日本航空123便は羽田空港を出発し、伊丹空港に向かう途中、群馬県の御巣鷹山に墜落しました。この事故は、単独機の航空事故としては世界最悪の惨事とされています。墜落により520人が亡くなりました。」(日本経済新聞)
「この事故は、航空機整備における小さなミスが重大な結果を招くことを示す教訓となりました。また、航空業界全体における安全対策の見直しを促すきっかけとなり、現在の航空技術や救難システムの向上に寄与しています。」 (trendsalad.com+1)
今一つの出来事は、
「昭和53年8月12日,市川修一さん(当時23歳)と増元るみ子さん(当時24歳)が,「吹上浜に夕日を見に行く」と言って外出したまま行方不明になったアベック拉致容疑事案が発生しています。」(鹿児島県警ウェブサイト)
「鹿児島県日置市の吹上浜で、市川修一さんと増元るみ子さんが北朝鮮に拉致されてから47年となる12日、現場近くでは拉致被害者家族や高校生たちが情報提供を呼びかけました。
市川修一さんの兄・市川健一さん「(拉致から)47年になりました。この事件を忘れないでください」。現場近くで市川修一さんの兄・市川健一さんと妻・龍子さんが、警察官ら約80人と共に通りかかった車の運転手にチラシを手渡し、情報提供を呼びかけました。
市川修一さんの兄・市川健一さん「今年の夏も『ただいま』という声を聞けなかったのがすごく残念。政府は本気になってほしい。ただそれだけ。会いたい」
川内高校2年の羽島奈穂さん。羽島さんは2024年、拉致に関する全国の作文コンクールで共に入賞した高校生3人とともに、8月23日に県庁で勉強会を予定しています。川内高校・2年 羽島奈穂さん「勉強会を通して一人でも多くの人に拉致問題の現実を伝えて、絶対に風化してはいけないと思ってほしい」
1983年から始まった情報提供の呼びかけは、これまでほとんどが関係者のみで、コロナ禍では市川さん自身が参加できないこともありました。
しかし、12日は勉強会を企画する高校生たちや友人の中高生9人も活動に参加しました。勉強会を企画する 甲南高校・1年 田村源太郎さん「受け取ってくれるのかなと不安だったが友達と協力したらうまくいった。これを通してもっと多くの人に拉致問題について知ってもらって忘れてほしくない」
勉強会を企画する鹿児島情報高校・3年 渕脇詩さん「海って平和なイメージが自分の中で大きいので、拉致が起きたと考えると悲しい。知らないから関りをもたないのではなくて、自分から積極的にこういう取り組みに参加することが大事」
轟木康陽記者「修一さんが海の向こうで帰国を待ち続けてからきょうで47年です。中高生だけでなく、県民一人一人が問題意識を持ち、拉致問題に思いをはせることが修一さんの帰国へつながるのかもしれません」
羽島さんたちが企画する拉致問題の勉強会は8月23日、県庁18階のかごゆいテラスで開かれます。(FNNプライムオンライン)
今日の福音は、まさに、イエスの嘆き節(?)に始まっています。
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」(ルカ12・49~51)

この言葉は、イエスがそれまで宣教活動をしてきた中で、自分自身が体験した実感のこもった嘆きの言葉ではないでしょうか。苦労してきた割には、人々の心の頑なさを肌で感じ取ってきたのではないでしょうか。イエスはガリラヤ地方から宣教活動を開始し、たくさんの地方をめぐりました。その間、イエスを慕い求めて集まってきた群衆は、さまざまの階層の人たちです。貧しい人たち 、病んでいる人たち、その他、現実の生活の中で苦しんでいる人たちです。でも、彼らの受け入れ方がいかに浅く、軽いものであったのか、イエスはしっかりと見抜いておられました。中には、イエスの人柄の魅力にひかれ、自分の生活を捨ててイエスと行動を共にしたのです。それでも、彼らのイエス理解はイエスののぞむようなものではありませんでした。彼らの心はどこか身勝手で、どこか俗っぽい人間的な功名心に満ちたものだったのです。
イエスはやはりこの世に平和をもたらすために来たのです。ところが、福音の冒頭にあるように、「言っておくが、むしろ分裂だ。」とはどういうことでしょう。
そもそもイエスは宣教に遣わす弟子たちを前に、「この家に平和があるように」という言葉で宣教を始めたのです。
ところが、人々は神から遠くに離れているにもかかわらず、神の側に立っていると信じきっています。自らの思いに自信満々なのです。だから、イエスの話しは彼らにとって耳障りな話であると、相手にしません。この行為によって、神との分裂が露呈されています。
神に目を向けない彼らがつくりだす平和はみせかけのもにすぎず、いずれ破綻をきたすのは必定です。この様な分裂を指摘するイエスを人々は迫害し、ついには、十字架に追いやってしまいます。
しかし、イエスの到来によってこの分裂が生じたのではなく、前からあったものが、イエスの到来により明らかになったのです。家族の分裂も隠されていたのです。まさに、神から離れて自分中心に生きようとする人間の生の現実です。
冒頭に引用した二つの事件も、真の平和の裡に、その後の生き方が進められますようにと、願わざるを得せん。被害者の家族も高齢化が進み、平和の裡に子や孫たちへ継承されているようです。
わたしたちはイエスの愛を受けた取ったのです。
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