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主の昇天:イエスによって、わたしたちは新たないのちに生き始めています

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主の昇天(C年)の説教⇒2025/06/01

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

主の昇天(C年)の説教=ルカ24・46~53

2025年6月1日

復活されたイエスは、その間、弟子たちに何度も現われ、彼らを勇気づけ、元気づけてくれました。宣教の現場を離れたイエス。これからいろんな外的誘惑を受けながらも、イエスの「証し人」としての仕事・使命を弟子たちに託します。

人間の社会では、時の流れとともにいろいろなことが変化していきます。イエスは弟子たちが、自らにおきる変化・出来事、その他の出来事等に動揺することなく、前を向いて先に進めるようにと弁護者・聖霊を派遣してくださいます。それは、自分たちに託された使命をより効果的に、より十全に果たすことが出来るようにという神の配慮であり、また呼びかけでもあります。

神の呼びかけは今でも続けられています。人間がその周りの変化に振り回されるほどの強烈な変化の只中にあればあるだけ、神の呼びかけは近くになっているのでしょうが、あまりにも小さくて・・。

それらの中で、人々の気になっているのが、時代とともに変わっていく「家族のかたち」。旧来の社会規範が色濃く残り、同性婚や夫婦別姓を望む人たちは大きな壁に直面しています。新聞の掲載文を、長いが引用してみましょう。

「『この子を2人で眺めていると、家族だなって感じる』。福岡市内のマンションの一室。会社員のみえさん(40歳)は、パートナーで歯科衛生士のかよさん(40歳)とほほえんだ。視線の先にいるのは愛猫の『めろ』だ。

2013年冬に出会い、約1年後に同居。周囲の理解や住まいの確保・・・・・。『好きな人と安心して暮らしたい』というささやかな希望の前に、多くの「壁」が立ちはだかった。マンションの購入時には、互いが後見人となるため、作成に1通数万円かかる公正証書を何度も求められた。―中略― 

1945年公布の憲法は14条で「法の下の平等」、24条で『個人の尊厳と両性の本質的平等』を定める。24条は戸主の権限が強い明治民法の家制度を否定し個人を解き放った。だが、『両性の合意のみに基づいて成立するとした婚姻について、同性婚は想定されていなかったと指摘される』」。(南日本新聞2025年5月27日朝刊)

法律があっても、それは人の生活を安全、安心に享受できるようにと定められたもので、すべては、人のため、人がより良く生きるために定められたものなのではないでしょうか。

男女雇用機会均等法の「第一世代」。社会に男女平等を目指す機運があると感じ、松浦満矢さん(63歳)と結婚したときは「別姓婚もすぐ実現するだろう」と楽観視していました。でも、期待は裏切られました。旧姓が使えると思った職場では「架空の人物に給与は振り込めない」とまで言われたのです。もやもやは消えず、4年後に「ペーパー離婚」しました。長男の将也さん(29歳)が巣立ってなお、願いはかなっていません。

主の昇天:イエスは、弟子たちを祝福しながら、天に上げられた
主の昇天(C年)の福音=ルカ24・46~53 〔そのとき、イエスは弟子たちに〕言われた。「聖書には次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。

今日は主の昇天の祝日です。その福音で、イエスは天に上げられる前、弟子たちに使命を与え「あなたがたは証人となる」と告げています。

「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」(ルカ24.45-48

中でも、「罪の赦しを得させる悔い改め」は、キリストの受難と復活によって救いを実現させた神ご自身がすでに宣べ伝えているのです。人の悔い改めよりも先に、神がまず人の罪を吹き払い、神へと立ち返るように呼び掛けておられるのです。この呼びかけを証しするのが弟子たちの使命なのです。弟子たちは決して一人で証しするのではありません。イエスが送る「父が約束されたもの」、つまり聖霊が共に働いておられます。それを身に帯びる時、人は変えられ、神の力に動かされることになります。

すべては、神の先んじた配慮、業が、わたしたちの救いへの道のりへの呼びかけになっています。今の「わたし」の周りで、いつも、わたしたちより先んじてその道を備えてくださる神の「呼びかけ」はなんでしょう。

現実に法治国家に生きているわたしたち、ある時には法をわずらわしく思ったり、助けられたり、苦しめられたり、笑ってしまったりと、何かあるたびに一喜一憂して揺り動かされてしまっています。振られっ放しです。

よく考えなくても、「わたしの罪は重すぎて負いきれません」(創世記4章13節)と、うめき声をあげているように、罪は自分では担いきれない重荷としてのしかかってきます。また、自分では処理しきれないとしても、相手がすっかり赦してくれるなら、重荷とはならずにすみます。しかし、赦すということが「受けた損害を我慢し、刑罰を手控える」ことにすぎなければ、あるいは人間にも可能かもしれませんが、すっかり赦すことは人間の力だけでは無理な話です。

聖書が説く赦しは、我慢や忍耐ではなく、罪を根こそぎ消去することだからです。

人々はイエスが神であることを見落としていました。このイエスが天に上り、神の右の座に就いておられるのですから、わたしたちは罪の重荷からすでに解放されているのであり、新たないのちに生き始めています。

 

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