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説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神
年間第5主日(C年)の説教=ルカ5・1~10
2025年2月9日
わが国には、わたしたちの日常生活に根付いた「二十四節気」があります。季節を表すためにつくられた暦です。この暦は、太陽の動きをもとに一年を24等分して季節を表したもので、農業の目安として作られました。二十四節気は6つずつ4グループに分かれ、それぞれ春・夏・秋・冬としています。(株式会社ONWA)
去る2月2日は、二十四節気の春の始まりとされる立春の日を前に、節分を迎えました。それぞれの祭典には、その祭り固有の「福を引き寄せる」パフォーマンスというか、儀式というか、があります。節分に関しても縁起のいい福を引き寄せる業があるとの話が、新聞に載っていました。この日は季節の変わり目で、春を迎える前に邪気を払い、幸せを呼び込むとされています。節分の行事には、豆まきや恵方巻きを食べるなどの習慣があります。
「節分に、その年の縁起のいいとされる方角を向いて、無言で海苔巻きにかぶりつく。関西発祥とされる恵方巻は、ここ数年すっかり全国区となり、鹿児島県内の店舗でもよく目にする。」(南日本新聞2025年2月2日朝刊)
ところで、節分の代表的な行事と言えば、豆まきです。この行事では、家族や友人が互いに豆を投げ合いながら、「鬼は外、福は内」と叫ぶのが一般的です。豆まきは邪気を払い、健康や幸せを呼び込むとされています。
また、節分の行事では、恵方巻きを食べる習慣もあります。恵方巻きは、東京や大阪など各地で異なる方角を向いて食べると縁起が良いとされています。この習慣は、江戸時代に始まり、現代でも多くの人々に親しまれています。(Shoply ワード辞典より)
しかし、近年定番の海鮮に加え、牛ステーキやエビチリ、とんかつなどを具材に使う恵方巻が並ぶようになりました。さらには、すしが苦手な人向けに、パンで食材をまいた恵方ロールや、恵方巻に見立てたロールケーキまで登場しています。こうすることによって、たくさんの人が福を呼び込む文化を楽しめることになります。
とはいうものの、販売期間や賞味期限の短さを背景に、食品ロス問題が課題として挙げられています。食べ物を無駄にしては、幸福はやってこないでしょう。そのために、販売店は予約販売促進と、ハーフサイズを充実させ廃棄の削減につなげています。食品ロスの削減は、廃棄処分に伴う二酸化炭素排出の低減にもつながります。西南西を向いて恵方巻を食べよう、と呼びかけています(同上紙)
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きょうの福音は、ペトロの召命の場面が描かれています。そして、ペトロと同じく、偉大な使徒として尊敬されているパウロの回心と派遣は、かなりショッキングな出来事とともに、わたしたちに訴えかけています。パウロ(サウロ)回心(召命)の劇的な場面を引用してみます。
「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、 ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。 ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。 サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』 同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。」
(使徒言行録9章1~9節)
パウロの召命とペトロの召命に共通する出来事があります。いずれの召命にも、「神の力に触れて」その生き方が変えられたということです。パウロは「なぜ私を迫害するのか」というイエスの呼びかけがありました。ペトロにとっては、大漁の恵みを見てしまったのです。二人とも、圧倒的な神の力に出会うことによって、神の真理を知るに至りました。
そして、ペトロは人間の限界を自覚します。さらに、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪びとです」という訴えとともに、キリストがふつうの人間ではないことを改めて知ります。だから、イエスと席を同じくすることなどとうていできないと告白したのでしょう。
偉大なるペトロ、パウロ両使徒にとっても言えることは、召命の出発点には自分の弱さの自覚がある、ということです。このことは現代でも同じではないでしょうか。ペトロにとっては、漁師は専門業です。このことを無視してイエスはペトロに指示します。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と。これに対してペトロは、一晩中働いたにもかかわらず、何も取れなかったことを告げます。でも、キリストに従います。「しかし、おことばですから、・・・」
万策尽きた状況を告白しながら、キリストに委ねたのです。キリストを信じます。神は弱く欠点だらけのペトロをかえりみられたのです。ペトロはそのことを分かっているかどうか分かりませんが、とにかくペトロはキリストに従うのです。ペトロの信仰告白です。
「福を引き寄せる」という人の思いは、かなり利己主義で、独りよがりです。
ペトロの思い(召命)は、すべての人を代表し、神主義です。
そして、すべての人に及ぶものです。
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