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主の公現:神の「秘められた計画」があらわになる

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主の公現(C年)の説教

説教の年間テーマ=わたしのすべてを知っておられる神

主の公現(C年)の説教=マタイ2・1~12

2025年1月5日

新しい年が始まりました。いいことが、いつもきてほしいですが、うまくいかないのがわたしたち人間の世界です。わたしたち一人一人の思いとは関係なく、いろいろな出来事が起こり、心配、悩み等、次から次へと新たな課題が突き付けられます。これがまた、よりよい成長へのきっかけになればいいのですが、プラス面よりもマイナス面のほうが顕著になって、先に社会の表面に登場してきます。このことの繰り返しが行われているのに、マイナス面(新しい犯罪等)防止策はかなり後手に回ってしまっています。致し方ないのでしょう。具体的な事例が出てこない限り、それに見合う法令を制定できないんでしょうから・・。また、仮にいい法令が出来上がったとしても、完璧な非の打ちどころのない法令はあり得ないのが現実です。その証拠に、法の盲点をかいくぐった犯罪が次から次へと起きてきます。

本来、人間はよいことのほうへと向かうべく創造されているのですが、悲しいことに、よいほうには、人間としての魅力を感じる要素が少ないのでしょう。惹かれていく人が少ないのが現実です。その逆のほうには魅力的な要因が満載しているのでしょうか、危険を承知の上で、さらには冒険心をくすぐられるように引き寄せられていきます。

しかし、よいことのほうには、見て聞いて無力的な要因はすぐにはわかりかねるのですが、「秘められた」奥に横たわっているのです。今日は公現の主日です。神があらわれたという意味です。つまり、神が人々の主としてご自分をおあらわしになったということを祝う日です。この生まれたばかりのイエスが救い主である、王であるということを知ることができたのは一体どなたなのでしょうか。

主の公現:わたしたちは、東方でその方の星を見たので、拝みに来た
主の公現(C年)の聖書=マタイ2・1~12 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。

今日の福音に登場するのは、東方で星を見た三人の訪問者たちです。東方で星を見て、その星が何を意味しているのか長年の経験からその意味を悟り、救い主に出会うために旅に出たのです。この王は民を過酷に支配する普通の王とは全く違う異質の王なのです。その王に引き寄せられるかのように「星」に導かれてエルサレムに向かうのです。

この三人の訪問者たちが、どのような人たちかといえば、マジシャンでした。つまり、星占い師だったのです。星占い師、実は、ユダヤの社会でいちばん軽蔑され、闇の中にいる人と思われてきた人々です。本当の神を見失った人と見られていた人たちです。ですから、一般的に敬遠され、白い目で見られていました。でも、その人たちが、星に導かれてやってきたのです。

ここに神のなさり方を見ることができます。「イエスはこう言われた。天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」(マタイ11章25~26節)神のなさり方です。

「いと小さき者」とは、森司教の言葉をお借りすれば、「いと小さき者とは、知恵のある人や賢い人を前提とすれば、愚かな人、知恵のない人、教養のない人、学歴のない人です。健康な人を前提とすれば、いと小さき人とは、病気がちの人です。五体満足な人を前提とすれば、身体のハンディを負った人です。よい家庭の中に恵まれた人を前提とすれば、家庭的には恵まれなかった人です。いと小さき者、それは、人生のハンディを負い、社会の底辺で、ともすれば無視されて生きていかなければならない人たちです。自分で自分の人生を切りひらく力がなく、主張することができない人たちです。」ということになります。

つまり、通常人間社会では「おちこぼれ」として、ないしは「やっせんぼ」として、ひとくくりにされている人たちのことをいうのでしょうか。特に日本人は人の、自分のいいところ、プラスになっているところを見、評価することをしないで、好んで(?)マイナス面を指摘し、評論することを得意とする民族なのかと思ってしまいます。

いずれにせよ、今日の福音の「ひめられた神の計画」は、世界の始まる前から定められていたのです。つまり、世の初めから神によって決定されていた神の意思は、キリストの十字架において、神によって初めて明らかにされました。知識としては、わたしたちはそのことをよく知ってはいるのです。だからこそ、用心しないと、いつの間にか「信仰評論家」にとって代わってしまうのです。それって、他者の「信仰」を断罪、処罰してしまうことになりはしませんか。わたしたちの神の、温かい、優しさにあふれた寛大な「秘められた計画」だからです。この計画をわたしたちは自分のものにできているのでしょうか。

それというのは、パウロが述べています。「この計画は、キリスト以前の時代には人の子らに知らされていませんでしたが、今や“霊”によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」と。(エフェソの信徒への手紙3章5~6節)

今日の福音の占星術の学者たちは、ユダヤのベツレヘムに生まれたイエスを礼拝するために星に導かれてエルサレムにやってくるのです。この東方の学者たちはイエスを礼拝しましたが、このことの中に、異邦人も神からの救いから除外されていないことが明らかにされています。

神の「秘められた計画」はすべての人を対象としています。おちこぼれはいないのです。

 

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