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年間第24主日:試練は「神の思い」と「人の思い」の違いの大きさから

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年間第24主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第24主日(B年)の説教=マルコ8・27-35

2024年9月15日

あまりうれしいニュースではありませんが、交流サイト(SNS)を使っての犯罪が次から次です。SNSを使って被害者に親近感を抱かせながら金をだまし取るやり方、「SNS型ロマンス詐欺」と呼ばれる新しい手口です。では、この新しい手口とはどんなものなのでしょう。

「SNS型ロマンス詐欺」とは、SNS等を通じて対面することなく、恋愛感情や親近感を抱かせながら投資に誘導し、投資金名目やその利益の出金手数料名目などで金銭等をだまし取るもの、又はSNS等を通じて対面することなく、恋愛感情や親近感を抱かせながら架空の事実を口実とし、交際の継続等を前提とした各種名目で金銭等をだまし取るものをいいます。(警察庁webサイト愛知県警察

この度、鹿児島県警組織犯罪対策課といちき串木野署は4日、詐欺の疑いで千葉市中央区星久喜町、無職藤村樹容疑者(39歳)を逮捕しました。逮捕容疑は、鹿児島県内の60代女性に、通信アプリを使って「配送には税関検査を通過するための預託金を支払う必要がある」とうそをつき、現金310万円を送らせ、だまし取った疑いです。(南日本新聞2024年9月5日朝刊)

便利で新しい何かが登場すると、それにつれて、新たな犯罪も出てまいります。悪いことにはとても敏感な、それでいてすごい手口を考えてしまうことに長けた人が登場します。良いことのためにもっと敏感な反応を示してくれると、助かる人がたくさんいるのではないかと思うんですがね。

被害にあわれる人もどうして相手になってしまうんでしょうか、何か魅力的なものがあるんでしょうか。簡単に儲けが手に入るとなると、つい相手になってしまうんでしょうか。そして、このような手口を考え付く人には、おしゃべりが上手な人が多いような気もします。そのおしゃべりに乗せられてしまうんでしょうか。

いずれにせよ、人は良いにつけ悪いにつけ、どうしても人を求め、相手にしたいのです。そうすることによって、自らがより成長できるし、相手とともに楽しい、人らしい日々を送ることができるからです。SNS事件などでの人との出会いであっても、それは無駄にはならないでしょう。きっとそうです。

一方で、そうでないもっとクリエイティブな出会いもあります。「創り手と交流を楽しむ」プロアマの作品展での出会いです。鹿児島県内外のプロ・アマクリエーター78組が作品を紹介する展示イベント「TSUKA FES(ツカフェス)」が、鹿児島市のカクイックス交流センター(かごしま交流センター)で開催されました。来場者は作品鑑賞やグッズの購入を通して創作者との交流を楽しみ、作り手は直接来場者と話をすることによって交わりを深めていました。

来場したイラストレーター志望の鹿児島女子高校3年、下入佐優衣さんは「地元で創り手と直接話せるのはとても貴重で、ありがたい。将来は出展者として参加したい」と笑顔で話しています。(同上紙)

年間第24主日:自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい
年間第24主日(B年)の聖書=マルコ8・27-35 〔そのとき、〕イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを 何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。

わたしたちの日々の営みは、いつも人との交わり、人々の間に我が身を置いておりなされています。そして、いい影響、そうでもない刺激を受けて成長していくのです。でもその中にあって、どうしても忘れられない人、乃至は、ある人に大きな影響を受けて自分の考え方、生活そのものが以前と大きく変わってしまったということがあるのではないでしょうか。良しにつけ悪しきにつけ、同じです。

二千年前、ユダヤの社会にも、たくさんの人、一人ひとりにいい影響を与え、社会を動かすほどの力ある方がおられました。その方はすい星のごとく現れ、そこで活動し、十字架に付けられてこの世を去ったイエスという個性豊かな人が、その人です。新約聖書はこの人について書かれたものです。大事なのは、このイエスを正確に捉えることです。新約聖書を理解し、その神髄、中心となるイエスの教え、勧めを受け止めるためには大事なことです。

イエスの力強い説教、病人たちを癒す力に人々は驚嘆し、瞬く間にその噂は村から村、町から町へと広がっていきました。そして、そのうちに次のような噂も駆け巡っていきました。

そこで「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」(マルコ3章21~22節)

人々にはイエスの正体をつかみ取り切れていないのです。多くの弟子たちにはかくされていました。そこでイエスは使徒たちにあえて問います。「『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『あなたは、メシアです。』」と。ペトロは立派な返答をしますが、それでも、十分な受け止め方はできていませんでした。続く受難の話を続けたイエスに、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」

十字架刑で終わるメシアは、ペトロにとってはメシアではないのです。だからこそ、イエスは弟子たちにメシア理解を正すために、初めて受難と復活を予告したのでした。つまり、人の思い(常識)と神の思いは必ずしも一致ないということでしょう。イエスがペトロに「サタン、引き下がれ」と命じたのは、わたしたちにとっても、イエスの前に出て歩むのではなく、「わたしの後に退け」ということでした。

「神の思い」と「人の思い」とがかけ離れているので、わたしたちには苦しみがあり、それがまた、大きいのでしょうね。

 

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