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年間第17主日:行き詰まった時は神の思いに戻り、自分の歩む道を確認したい

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年間第17主日(B年)の説教

2024年(B年)説教の年間テーマ=あなたの言葉は「わたし」の道の光

年間第17主日(B年)の説教=ヨハネ6・1~15

2024年7月28日

わたしたち人間社会では、実にたくさんの「○○証」と言われるものがあります。「証」は事実関係を明らかにすること、証拠といった意味合いがあります。そして、生きるためにどうしてもそれが必要な仕事があるのは認めているところです。

身近なところでは教員の「免許」があります。幼稚園の場合、本人に渡されるものは、短大卒業の場合、「幼稚園教諭 二種免許状」なのです。実は、免許と免状の使い分けがあることに気づかされました。

「免状」と「免許」は、どちらも特定の資格や権限を示す日本の用語ですが、その使用される文脈や意味には微妙なニュアンスの違いがあります。

  • 「免状」は、権限を与えるものとして、特定の職務や活動を実施するための資格を示し、
  • 「免許」は、許可されるものとして、特定の活動を法的に実施できる許可を示します。

どちらも重要な社会的機能を果たしており、それぞれの文脈で適切に使用される必要がある言葉だと言えるでしょう。さらには、「免許状」という言い方もあります。「免許状」は官公庁が免許の証が書かれた大きな紙であることだそうです。(違い比較辞典)

色々調べているうちに、なんだか混乱してきました。いずれにしても、ある仕事をするにあたり、しっかりとした「資格」を持っているので、安心して任せられますよ、という「証し、しるし」であることに変わりはないでしょう。

また、まったく「免許証」とは違う「思い出のしるし」として記憶され、人の心に訴えるしるしがあります。しかも、誰でもが参加でき、語り継いでいってくれるであろう記録にもなります。その中の一つに、思いを込めて曲を作ることがあります。それにより、心和ませるひと時を楽しみ、あるいは懐かしむ時間を持つことができます。しかも、自分の地元にかかわるオリジナルソングの作成だと、もっと親しみを覚えます。その時の地域社会の置かれた状況、その時代の人の思いが込められた、さらに、地域の人がもっと親しみを覚えてくれそうな地域のオリジナル曲になっていくでしょう。

それを試みた人たちがいます。指宿市川尻小学校の児童たちで、シンガ―・ソングライターの野田かつひこさん(58歳)=福岡県久留米市=と一緒に作った曲です。完成した曲は「川尻の宝物」と命名。学校行事や卒業式などで披露する計画だそうです。(南日本新聞2024年7月22日朝刊)

オリジナルソング作成に当たり、野田さんと5,6年生12人は、近くの川尻漁港周辺を散策し、川尻海岸で見つかる鉱物・オリビンや開聞岳、持久走の思い出など歌詞の材料を出し合いました。そして、野田さんが児童の選んだ曲調で作曲。明るくアップテンポな曲に仕上がっています。6年生の竹畑実郁さんは「みんなの思いが一つの曲になった」とうれしそうです。野田さんは「初めて曲を作った思い出と一緒に、歌い継いでいってほしい」と語っています。

当たり前のことながら、わたしたちの日常は、たくさんのサインを使って自己表現をし、他者を理解し、楽しい平和な毎日が維持されています。話し手、プレゼンテーターが意図していることがあって、そのことを他人に伝えるためにあるものを使ったり、たとえで語ったりと、人それぞれです。そのために、何が一番効果的なのだろうかと、あれやこれや考えぬく人もいるようです。

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イエスも自らが意図しているものを伝えるために、たくさんのしるし、たとえを用いられました。

今日の福音書の話は、イエスが山上でパンを増やす奇跡をおこなったという話しの場面です。「奇跡」は、しばしばイエスが行われますが、きょうの話はいかように捉えればいいのでしょうか。奇跡ですから、それは「しるし」です。何の?その「しるし」に込められたイエスの本意は何でしょうか。必ずイエスのメッセージがあるはずです。

大勢の群衆がイエスの後を追ったのは、5章に記された「べトザタの池で病人をいやす」出来事の中に「しるしを見た」からです。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた。病人は答えた。『主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。』イエスは言われた。『起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。』」(ヨハネ5章5~8節)

群衆はイエスを驚くべき奇跡をおこなった執行者として、それが「しるし」であると認めていますが、信仰には達していません。「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」とあるように、イエスは確かに「預言者」であり、「王」でありますが、彼らのそうした思いは、イエスの思いとはかなり違っているのです。イエスの思いは神の思いを地上に示す仲介者としての預言者であり、王なのです。彼らは自分たちの思いを神の思いとみなしています。したがって、自分たちの願望に過ぎない要求をしていることになります。つまり、地上の王国をつくってほしいという願望です。ですから、イエスは「ひとりでまた山に退かれた」のです。

言葉とかサインとかは、他者が理解するための助けにはなるでしょうが、時には、誤解を生じることもあり得ます。イエスの場合はまさにそうでした、イスラエルの当時の指導者階級からは、明らかに彼らの悪意に邪魔されるのです。

今のわたしたちにおいても同じようなことがあり得ます。それで苦しんでいる人もいるのではないでしょうか。その時、イエスはどうしたでしょう。「人里離れたところ」に退き、静かにおん父の思いを確認したのでした。

わたしたちも精いっぱい神の思いに戻り、自分の歩む道を確認したいですね。

み言葉は「わたし」の道の光です。(詩編119の105節)

 

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