復活節第4主日(B年)の説教=ヨハネ10・11~18
2024年4月21日
「どうして男は・・・」という新聞の見出しが目に入り、気になってその内容を読んでみました。(南日本新聞2024年4月12日朝刊)
もちろんのこと、すべての男性がそうであるとおっしゃっているわけではないでしょう。ここで問われている内容が何かといえば、いただいている命に対する考えがどうなのか、ということではないでしょうか。少なくとも普通に考えれば、「人は人であって物ではない」、ということです。赤ちゃんといえども、その命は、言うまでもなく、大人と同じです。
「人の命は地球より重い」といわれている通りです。この言葉は、’77年の日航機ハイジャック事件で、人質を救出するために収監中の容疑者を超法規的に釈放した際に、福田元首相が発言したことで広く使われるようになったと言われています。
もともとは「自助論」からの言葉です。中村正直がサミュエル・スマイルズの「自助論」の翻訳をする際にこのような記述を用いたのです。「自助論」とは、「この一人の生命は全地球よりも重い」からも有名な書籍です。(ウィキペディア)
いずれにせよ、人の命を守り、さらに生かしていくためには、愛が必要です。何も子どもだけでなく、大人にとっても、ある人から、しかも大事と思っている人から愛され、期待されているとわかると頑張れます。勇気がでます。人間の成長には愛の心、「愛し、愛される」ことが大事なのです。
今日の福音では、イエスは、その愛の交わりを羊飼いと羊の関係で話されます。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。」
また、自分の利益を根拠にして行動する人と愛情を原点として行動する人の対比が述べられています。まことの愛に生きる人は損得を超えて、自分とかかわる人のためには、どんな犠牲をも払ってその相手に奉仕します。それを悔いることもしません。そのような人って、身近にいらっしゃるのではないですか。その姿を見て、何もそこまでしなくても、と思われる人もいるかもしれませんが、その相手が喜ぶことであればその身を削ることをいとわないのです。その人が不幸な状態から救われるために、動くのです。
その典型的な姿を示してくれたのが、イエスの十字架です。イエスは十字架の上で、わたしたちのためにその命を捨ててくださったのです。今日の福音の羊飼いの姿に重なります。この「捨てる」という言葉は、「命を懸けて」というふうにも取られますが、イエスにとっては、文字通りにいのちを捧げるのです。言うまでもなく「死」です。
イエスは命を危険にさらすのではなく、羊たちにいのちを差し出すのです。それは、命を粗末にしているのではなく、父からの掟だからです。「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」と言われます。それは、罪びとを無償で赦そうとする神の思いが実現されるためなのです。
やはり、わたしたち人間にとっては、愛すること、人を大事にすることには、自己犠牲が伴います。苦しいです。辛いです。自分の思いのままに生きたいと思いつつ、周りに対する配慮も欠かせません。何となくすっきり感がしません。でも、そこにその人の真実の愛が横たわっているのではないでしょうか。多くの人は言うでしょう。そのようなことは頭ではわかってはいるんですけどね、・・・と。
夫婦でも、親子でも同じようなことが起こりえます。人間の世界におけるこうした困難さも見通したうえでのイエスの「捨てる・死・十字架」なのです。だからこそ、わたしたちは安心して前に歩を進めていけるんです。
実に、「愛」は名詞ではなく、動詞なのです。じっくりと味わってみたいことですね。
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